docu_tokiko
  • 〜「天の魚」と「1968」 1968年は今も続いている〜
     東大駒場寮跡地でトークショー開催



    ゴールデンウイーク中だからなのか、鴨川自然王国の帰り道、東京への特急列車は込み合っている。
    にもかかわらず、すぐ後ろの席のおじさんが酔っ払ってドスの効いた声であたりかまわずどなりちらすものだから、ほかのお客はハラハラ、もちろん私もハラハラ、車内はシーンと静まりかえっている…のだけれど、全く気にしないで話し続ける人がひとり。

    「やっぱり、鴨川はいいわね。今年の田植えには子供がいっぱい来ていたわ。そうそう、今度、東大駒場寮の跡地でね、水俣病に関するイベントがあるんだけど、そこでトークするの。あなた、来なさいよ。え?後ろのおじさん? だーいじょうぶよ!」

    あっはっは!

    登紀子さんの陽気な笑い声が車内に響くと、威勢のよかったおじさんの調子がどうにも狂うようでしばらくするとおとなしくなった。さすが。

    「東大駒場寮が取り壊されるとき、確か登紀子さん、反対のコンサートに出演しませんでしたっけ? 新聞で読んだ気がする」

    「うん、でも結局、東大駒場寮は取り壊されてね、かわりに小さな劇場(多目的ホール)が建ったの。もう17,8年ぶりかしら? その劇場で最首悟さん率いる勉強会『不知火グループ』が主催で、一人芝居『天の魚』が上演されたあと最首さんと対談するのよ」

    「天の魚?」

    「ほら、石牟礼道子さんの」

    それは、こんな物語だ。

    1964年の熊本県水俣市に住む老漁師のもとを石牟礼道子が訪れる。老漁師は妻、ひとり息子、そして3人の孫と暮らしている。息子も孫のひとりも水俣病だ。当時、水俣病は伝染病、奇病として「貧乏漁師のなる病気」と恐れられていた。老漁師は久しぶりのお客に気を良くし、焼酎を飲みながら自分の半生を語っていく。

    当日、会場は若い学生や団塊世代と幅広い年齢層の人たち半々だった。
    口をポッカリあけた仮面をつけ、川島宏知さん演じる老漁師は、方言が強くて何を言っているのか分らないところもあったけれど、なんともいえない人間のおかしさ、愛おしさがにじみ出ていて、それがかえって、なぜこんな人のいい老漁師が悲しい運命を負わなければならないのか、しみじみと考え込んでしまった。



    ●1968年は過去ではない

    1時間半に渡る公演が終わるといよいよ登紀子さんの登場だ。

    「『天の魚』見てたら、焼酎飲みたくなったわ、誰か持ってない?」

    神妙な面持ちで席に着いていたお客さんたち、その一言にどっと沸く。

    「廃寮反対のコンサートに出たのは93年、最首さんが東大の助手だったころですね。さらにさかのぼって1968年にはこの大学の6年生で、なんとか6年目で卒業できた。明日は振袖で!という出版社からの注文もあったのに、あの卒業式ボイコットの年と重なったんですね。私は一夜にして人生にとって大切なものは何だろうと、卒業式ではなくジーパンでボイコットに加わりました。その数日後に藤本敏夫と出会い、私の運命は大変なことになっていくわけです」

    学生運動にあけくれた藤本さんは、闘争ではなく環境や農業にシフトしていく。あの時代、いち早く世界に環境問題を定義したのは3人の女性だったのだと登紀子さんは話す。

    「石牟礼道子、シーア・コルボーン、レイチェル・カーソン。アメリカの農薬問題を取り上げたレイチェルは大変なバッシングにあいます。けれどもケネディがいち早く調査し、やはり危ないものだと分った。それでどうなったか? その危険な農薬はその後、日本に流れ、日本で問題になると、今度は中国へ。歴史って恐ろしいです。自国の農薬製造業を守るために、危険だと知りながら他の国へ持っていくのですから」

    ●「1968」を弾き語り

    「1968年は今も続いている。そろそろリタイヤして同窓会であのころ、懐かしいねなんて語ってほしくない。学生運動をしていた人も卒業して大会社に入って、農薬を売って、ダムを作ってきたかもしれません。でも、68年は過去ではない。今こそ考えましょうよ。…そういう歳だと思います」

    青いショールにロングスカート。登紀子さんの「1968」を聞くのはこれで2回目だ。前回、聞いたのは年末のほろ酔いコンサート。激しいロック調の曲だったけれど、今日はアコースティックギター片手に語りかけるように歌う。

    ほろ酔いでの気持ちがほとばしるような歌い方が好きだったけれど、まろやかになった今日の「1968」が「天の魚」を上演した後の空間にとてもしっくりくる。

    ふと、頑固な明治生まれの私のおじいさんを思い出した。
    おっかなくって、子供嫌いで、でっかい声で、へんなガラクタを集めたり、いつも大声で文句ばかり言っている近所でも有名な「困った人」だったので、孫たちはおじいさんが近づいてくると、「うわー! じいちゃんが来たー! 逃げろ!」とあわてて駆け出すほど、とにかく孫にも近所の人にも好かれない人だった。

    そんなおじいさんだが、ちょうど私がロシアを旅していたとき、ガンで急に亡くなってしまったという知らせを受けた。

    帰国してからおじいさんの最後の様子を母が聞かせてくれたのだが、昏睡状態となったおじいさんは、うわ言で、「北海道はまだかー、北海道はまだかー」と言い出したそうだ。みんなキョトンとしているなか、うちの母が機転を利かせて、「陸が見えましたよ!」。すると今度は、「上野はまだかー、上野はまだかー」。

    「樺太で終戦を迎えて、女子供は船で帰国したけれど、おじいちゃんは、捕虜に取られて。けれども、どんどん飢えや寒さでみんな死んでいくから、丸木船を作ってまだ魚雷が浮いている海を越えて仲間と脱出したらしいの。よっぽどつらかったのか、ほとんど話したことはないんだけど。看護婦さんから薬を飲むように言われても、絶対いやだってごねるから、『これ私が買ってきたんだよ』と言って渡したら『そうか、それなら安心だ』って。どうも捕虜時代、看護婦さんに薬を渡されて飲んだ人が次々死んで、おそらく毒殺されたんだろうけど、もう50年以上たっているのに、トラウマになって信用できないのね」

    頑固なのはもともとだろうけど、戦争がおじいさんをさらに頑固に変人に変えたのかもしれないと思うと、急におじいさんが気の毒になった。国に見捨てられ、極限の中で笑いもなく、そんな数年間は、死ぬ最後の最後までおじいさんの夢のなかにも登場する。老漁師の「どうしてこうなったんだろう?」というぼやきと重なってくるのだ。

    水俣。歴史の教科書に書かれた地名、ただそれだけだった。
    戦争。とっくに終わった過去のことだと思っていた。
    それがぼんやりとだけれど、身近なことに思えてくるのだ。


    ●何一つムダなものはない

    登紀子さんは語る。

    「私は激しい学生運動に参加しながら、いったいどれだけ水俣について知っていたのか。どれだけ力になれたのか。けれども何ひとつムダなことなんて人生にない。いつかは誰もが死ぬけれど、生きているうちはきちんと見届けましょうよ。一昨年、ベトナムのドクちゃんが勤める病院に行きました。今も足のない子や頭が大きくて一生起き上がれない子も産まれてきます。けれども、それでも母親はみんな一生懸命、その『いのち』を育てる。生きるということは循環すること。『いのち』は『いのち』を育てていく。もう一曲、歌っていい?」

    『レボリューション』の歌にあわせて手拍子が鳴る。
    登紀子さんは、にっこり笑ってさっぱりした顔で舞台から去っていったけれど、1968年を知らない会場の若い人たちにも、たくさんの宿題を残していったような気がする。



白石あづさ

「THE EIKEN TIMES」に加藤登紀子インタビュー掲載中!!


白石あづさ

10月28日生まれ。東京在住。
生誕1万日目に思い立って勤め先を辞め、

約3年の世界放浪の旅へと旅立つ。
その間、訪ねた国、地域は約100にのぼる。
帰国後、フリーライターに。
ライフスタイル誌や人物インタビューなどを中心に活動。
2008年5月30日に小学館より「世界のへんなおじさん」を出版。

<blog>http://www.hennaojisan.com/