「遠い祖国」

生まれた街の話をしよう
そこは遠い北の街
戦争の中で生まれ そして
幼い日に追われた街

ゆれる木の音 風に咲く花
短い夏の陽ざし
知らないはずの風の匂いを
覚えているのは何故
燃えたつ色の街の灯に
ジプシーの歌が聞こえた
石だたみの道をゆきかう馬車
とびかう物売りの声

自由の風に 胸を踊らせ
この街を愛した人々
戦争の嵐に 弄ばれて
運命にひききかれた街

この街に別れをつげた日は
やけつく夏の終わり
貨物列車の旅の終わりに
たどりついた街はもう秋

公園の片隅 むしろがこいに
身を寄せ合って眠った
その夜暗い空から降った
白い白い粉雪

秋のはじめに 雪降る街
それが私の故郷
長い冬の訪れを
吹雪で飾る北国

たとえそこが 祖国と呼べない
見知らぬ人々の街でも
私の街と呼ぶことを
許してくれますか

 故郷のうた

加藤登紀子

 

 

 


 ハルピン――。この街の名前をご存知ですか。
 帝政ロシア時代、ウラジオストックとならんで、極東のパリと呼ばれるほど美しく建設されたロシア人の街。中国東北部に位置し、松花江(スンガリー)の流れを抱いた大陸の街です。
 私はここで1943年に生まれ、2歳8ヵ月までいました。戦争が終わった時、両手に持てるだけの荷物を持って、母と兄と姉と私は収容所に送られた。1年後、屋根のない貨物列車に乗せられ、この街を去りました。
 記憶のないこの歴史が私の中でいかに大きな意味を持つものだったか、この頃になって深く思い知ります。両親と一緒にハルピンを訪れたのは81年の夏。日本人が東北部に入って初めてのコンサートが許されたときです。
「我、生誕」と紙に書いて生家の跡に住んでいる人たちに見せ、いくつものゆかりの場所を訪ねました。人々は暖かく、どこへ行っても笑顔で集まってきて手を握りあいました。
 終戦から数10年を経て、夢のように美しかった街は、以前より古びていて、庭や公園などのあいた土地には、余すところなく家が密集し、廃材が所狭しと置いてあります。
 最初の日、母は少し落胆して、「登紀子に見せたかったものはもうなくなっちゃたわね」と言っていましたが、3日目の朝、「この街をちょっと見ただけで、汚いなんて思っちゃ駄目、ここの冬は本当に厳しくて、だからあんなふうに廃材が軒下に積んであるのよ。それに35年以上も前の建物が古くなっていても当たり前よね」と目を輝かせて皆んなに言っていました。
帰国する日、母は「帰らない」と言い出しました。
「ここは私の街だから」。
 
 生まれ故郷をひとりの旅人として立ち去る時、私もこの言葉を誰かに言いたかった。「ここは私の街だから」と。
 記憶にはないのに、この街が懐かしかく、私と初めて逢うはずの見知らぬ国の人々が、同胞として抱きしめてくれたこの数日のことを私は忘れまいと思いました。けれども、生涯、旅人として生きていくんだろうという、一筋の風が、心の中を吹きました。