少女のころ

加藤登紀子

 

 

 


 大陸から引き揚げた時、母と私たち3人の子供は、京都駅にたどりついた。
 ハルピンを9月初めに出発し、佐世保についたのはもう10月中頃。そこでまたしばらく針尾島の引揚者収容所におかれて、再び貨物列車で京都までの長い旅を終えたのだ。
 旅が日常だった私にとっては、いよいよ現実の生活が始まったことになる。母が言っている。
「明日どうなるかわからない引揚の旅の間、あれは夢みたいなもので、不思議に楽しかったんよ。でも日本に帰ったら、すべてが現実で厳しかったね」。 京都は戦災がなかったから、かえって引揚者には冷たかったそうだ。無一物の私たちにさえ「体裁の悪い格好をしてもろたら困るがな」みたいな風当たりが親戚からもあったそうだ。母はそれで洋服の仕立ての仕事を見つけて、私を連れてその家に通った。その頃が私の記憶の始まり。
 そして翌年のはじめ父が無事復員したのを機に、私たち家族は新天地を求めて東京へ引っ越した。まずは焼け跡の真ん中に6畳一間を借りた。それが偶然、いま住んでいるところからすぐ近い原宿駅周辺。進駐軍が近くにあり、ジープが行き交っていた。
 それから板橋の大山に家をかり、しばしの落ち着いた時間。
 母は助手兼お弟子さんの女の人たちを2人ほど家に入れて毎日洋服の仕立てに励んだ。父はキング・レコードに入社し、音楽業界の活動を始めた。
 長門美保、小林千代子などのクラシックから笈田敏夫などのジャズまで、戦後の曙時代を手がけたことになるが、景気はすこぶる悪かったらしく、「キングからボーナスが出たら」の約束だった三輪車はついに買ってもらえなかった。
 小学校入学前の2年、私の記憶の中の自分史は、この東京で始まっている。戦後のドサクサ。隣のお姉さんは夕方になると口紅を塗って出かけていった。太ったおばちゃんは闇屋だった。ボロボロの格好の子供たちだけは元気に路上で遊びまわっていた。
 夕方になるとラジオから聞こえてきた―「緑の丘の赤い屋根、トンガリ帽子の時計台、鐘が鳴りますキンコンカン、めいめい小山羊も鳴いてます」
 母は私をおんぶしてよく映画を見にいった。とくに覚えているのは「チャタレイ夫人の恋人」。当時、不倫をテーマにしたこの映画は大センセーションで、子供ながらこれを見る機会があったことが、いまにして思えばなんだか嬉しい。
 私のこの頃の十八番は「フランチェスカの鐘」。
 「あー、あの人と別れた夜は、ただなんとなくめんどくさくて、さよならバイバイ言っただけなのに」。
 「めんどくさくて」のところを「めんどくちゃくて」といつもいつも、口ずさんでいたらしい。当時から声が低かったのだろうか。 楽しかったこの東京生活も結局長くつづかなかった。父がキングを退社し、失業状態で京都に戻ることになったからだ。東京とは違ってすっかり落ち着きはらった京都・上賀茂。大きな仏壇や立派な襖のあるお屋敷だった。わが家は事情あってその裏庭の離れを借りたのだけれど、母は私に突然、お茶を習わせた。
 「大陸帰りで、襖のあけ方も知らない無作法な子供じゃ、京都ではみっともない」。
 京都生まれの母の中にある京都への誇りと京都の息苦しさへの反発が入りまじる京都生活の始まり。
 神社の境内をわが遊び場とし、賀茂川で泳ぎを覚えて、いちぢく、栗、柿の木とふんだんにある自然の中で、東京都は違ったすばらしい子供時代だったと思う。でも、京都の思い出には東京の時とは違うどこか淋しさがつきまとった。
 あとになって父が書いた本によれば、「どんぞこの時代」だったのだそうだ。末娘の私は、それに気づきもしなかったけれど…。
 無口で、泣き虫で、遊び下手な、いつもいつも母のそばにくっついている内気な少女。小学校から中学1年の夏休みまで、私が京都生活で得たものは、なにより川の流れだったと思う。神々しいほどの静けさと、どこからか来てどこかへ流れていく、絶えまない水の流れ。内向的だった私の思い出の隅々にまでその音がしみこんでいる。
 大陸の大河への記憶、そして京都の清流との親密さが、どれほど私に力を与えてくれたことだろう。
 川は立ち止まらない。河は静かに歌い続ける。
 河はすべての人を見守る。川はあきらめない。
 河はいつも未知なるものに向かう。
「川のように生きたい」
 それはいつか私の一番大切な信条になった。