石ころたちの青春

  かけのぼる階段を
   時にはころげおち
  胸はずむ未知の国へ
   夢中で飛び込んだ

  無限大のプライドで
   夢をふくらませて
  何度でもドジを踏む
   石ころたちがいた

  振り向けば、
    悲しいくらい無様な未熟者
  旅はまだ始まり
   チャンスはまだこない

  誰よりもうぬぼれで
   誰よりも臆病
  傷ついて たおされて
   ふるいたつ ライオン
  柵をこえ ゴールをこえ
   レールを踏みはずし
  どこまでも止まらない
   石ころたちがいた

  振り向けば、
    悲しいくらい無様な未熟者
  旅はまだ始まり
   チャンスはまだこない

  もぎたてのリンゴほど
   きれいじゃないけれど
  けとばされてもくじけない
   石ころたちがいた

  どこにでもころがってる
   でもどこにも見つからない
  今は誰も気づかない
   石ころたちの青春

 目覚めの季節

加藤登紀子

 

 

 


 中学を卒業するとき、担任の先生からこんな言葉をいただいた。
「君はまだ眠っている、これからきっと目醒めるときが来るだろう」。
 よほどこの言葉が強烈で嬉しかったのか、今でもありありと覚えています。
 中一で京都から東京に引っ越し、東京の人たちのテンポについていけない、ぐずで未熟な少女! まったくもって冴えない中学生活だったから、この言葉にすごく励まされたのだと思います。「ほんとの私はこれからなんだ」。その安心と予感に、背丈がすっと伸びたような誇らしい気持ちを持ったのでした。 高校に入ってからは、引っ込み思案で臆病だった私が、少し積極的になり、東京都立駒場高校の名物、花形クラブだったKHK駒場放送局に入部し、アナウンサーになりました。同じ高校の卒業生だった姉は、「へえ、トコがねえ。考えられないね」と心底驚いたようでした。私は、姉がそんなに言うほど、地味な、内気な存在に見られていたのかと、しゃくにさわって、なおさら張り切った。
 アナウンサー部人数も多く、先輩にもスターがいっぱい。でもその中で私は結構、中心メンバーになり、その夏、高校放送コンテストに朗読の部門で参加した。毎年、賞を総なめにしていたKHKだったから、結構、晴れがましい立場でした。
 ところが、何という失敗、風邪ひきと練習のやりすぎで、当日、突然に声をつぶしてしまった。先生は泣きそうな私の顔を見て、笑いながら「マイクという強い味方がいるんだよ。大丈夫、大丈夫」。
 ほんとは参加を取りやめてしまいたい気持ちだったのに仕方なく、マイクの前に立ちました。拡声された私の声は、誰のものだか分からないとんでもない悪声で、せっかくの練習も水の泡。結局20位という成績をもらったのでした。
 運命とは不思議、後にマイクの前に立つ仕事をすることになるとは夢にも思わなかったんだけれど、今も、声を仕事にして四苦八苦するとき、この日のことがことに生々しく思い出されることがあります。
 このKHKには、後に黒色テント68〜71のリーダーで、演劇界の重鎮となった佐藤信が同級生にいました。2年生のとき、彼が局長で私が副局長、百名あまりの部員を従えていました。1年後輩には吉永小百合さんもアナウンサー部に入部して、そのとき私はアナウンス部長。
 まさに輝ける16歳。
 佐藤信は、その頃から創作ドラマを次々と執筆し、私たちは、プロの放送局と同じくらいの仕事をしている気持ちになっていました。そして、その6月、1960年の安保改定反対闘争の大きな波の中で、超積極派のたまり場「KHK」は論争の先陣を切って動き出したのでした。 セーラー服を渋谷駅のロッカーにあづけ、地下鉄に乗って国会議事堂前へ。6月4日から15日まで、積極派数人は全学連の大学生の指揮のもと「高校生会議」の旗を揚げて、デモ隊の中にいました。そして6月15日、雨の降りしくデモの日、重々しい夕闇とサーチライトの中で、「高校生は全員帰宅するように」という指示が出され、あわただしい空気に包まれた国会周辺から、私と女子の友達だけは家へ帰りました。 振るえながらテレビを見ていたその夜、国会へ突入した東大生の隊列の中にいた樺美智子さんが機動隊に殺されたのでした。佐藤信ともう一人の男子はその夜、大学生の中にいたそうです。
 翌朝、KHKの部室に青ざめた表情で現れた彼と二人、朝のニュースを黙々と準備し、私は全校生に向かって6月15日の夜起こったことをアナウンスしました。
 この朝のニュースは私が自分の声で、自分の言葉で、人々に向かって大切な何かを伝えようとした最初の瞬間だったかもしれません。