逢 瀬

後姿の淋しい男に
  かける言葉は見つからない
肌を寄せるには 冷たすぎて
ただ 黙って歩いていた
一番電車に 乗りましょうか
それとも このまま別れましょうか
二人で居れば なおさら淋しい 
夜明けの裏道り

後姿の淋しい男は
   言葉でひたすら笑っていた
安い酒場で ほらを吹いて
酔える限りに 酔いどれた
誰もいない 夜空の下で
声を上げて うたおうか
朝が来るまで
   このままずっと抱き合って
   ねむろうか

後姿の淋しい男は
   その背中でさえ笑ってみせる
使い古したコートの様に
淋しさも 生きがいも 色あせた
生きることは 生きつづけること
哀しい くり返し
二人で居れば なおさら淋しい
   夜明けの裏道り

13

 神様の命令

加藤登紀子

 

 

 


 卒業式の夜、お祝いのパーティーがあった。
 本当なら、振袖姿で華やかにという芸能チックなパーティーのはずだったのが、「卒業式ボイコット」という事態になり、ジーンズで座り込みに参加した私の気持ちは、そんな思いとは反対側にいた。けれど、親しい新聞記者は、みんな私に拍手を送ってくれて、かえって意味ありげなパーティーとなった。
 ある新聞記者が私にこんなことを言った。
「犬が人間をかんでも記事にはならないが、人間が犬をかむと記事になる。今日のおときさんはそうだよ。」
 あ、そういうことかと少しひんやりした気持ちで受け止めたこの言葉、その後もいく度か思い出すことがあった。
 歌手が作品をつくり、歌をうたうことは、なかなか記事にしてもらえない。予想外のこと、事件、私生活。そればっかり追いかけたがるジャーナリズムの生理に苦しみもした。
 けれど、よりによって、どうしてなの、というくらい、事件と私の行動が交叉してしまう不思議は確かにある。これも神様の命令か。
 週刊誌のグラビアにデモ姿が出たことがきっかけだったか、3月の末、学生運動をしている友達から電話があり、リーダーの藤本敏夫という男を紹介したいと電話があった。
 新宿歌舞伎町の「スンガリー」で逢うことになった。白地にピンクとブルーの花模様、今では考えられない可愛いいファッションでそこへ行った。藤本は黒いズボンに白いワイシャツ、上から3つまでボタンをはずした清潔な服装で現われた。明治大学の学生会館に寝泊りしているにしては、おしゃれだ。汗くさくて、汚くて、うるさい学生たちのイメージの中で、それは際立ってみえた。
 「学生の集合に来て歌ってもらえませんか」彼の用件はこれだった。
 私は、少しばかり学生運動にかかわり、精神的に傷ついてもいたから、何を今さら、という気もして、すぐさま断わった。
「政治スローガンに迎合して歌うのはいや。それに、歌って踊って楽しく、なんていうやり方を政治の場に持ち込むのは駄目だって、よく批判したじゃない?」
 彼は一切反論しない。すんなり、「そうですね」ということになった。
 あとは何を話したか覚えていない。ただ、「飲もうよ」ということで、盛り上がった。 「いや、あの時は、ごちそうになったな、食いもんと酒に飢えてたからな。」と藤本は後に言っている。
 私は惚れっぽい女だから、目の前の男の世界のとりこになってしまうことは珍しくないし、その度に恋に墜ちるわけでもない。ただこの夜、「茶漬けが食いたいな」という彼の一言のために、明けの方の4時半ごろ、わが家で、お茶漬けをごちそうしたり、代々木駅の始発電車を見送りに行ったり、そんなことまでした私は、冷静であったとは言えないかも知れない。
 代々木のプラットホームで電車に乗り込む時みんなに私は手を振った。なのに藤本だけは振り向きもしない。視線をはずしたまま、朝刊を片手にさっさと自分の世界に入っていく男の姿が、心にしっかり残ってしまった。
 2度と逢うことはないと思ったのに、3日ほどして、電話があった。
 代々木駅前のドリアンという店で、と約束。けれど彼は、閉店まで来なかった。何か事件でもあったのかと、胸騒ぎして、思いきって明大の連絡先へ電話を入れると、迷惑そうな声で誰かが「あなたに逢いにいきましたよ」。
 ついに店の電気が消え、「ほたるの光」に送られて表へ出た。すると、別の階から出てきた男がもう1人いる!
 なんと、2人は別の階で何時間も待ったことになる。そのまま、淡々と歩き出して、渋谷まで行き、再びその夜も明け方近くまで、飲みかつ食べた。
 それがルンペン学生の生きる手だてだったか、恋心だったか問いつめたことはない。私はたいてい彼の話しの聞き役、私の何が気に入ってるのかもわからなかった。ただ別れる時には必ず次に逢うことを約束した。1週間に1度か2度。けれどその年は、彼にとって多忙の年。しかも1年の半分以上が拘置所だった。

 5月、神田カルチェラタン。パリの五月革命に呼応して、お茶の水の学生街が燃えてきた。大阪からの飛行機の中で、藤本がお茶の水駅前で逮捕された記事を読み、それでも約束のゴールデン街の店へ行った夜もあった。
 6月、やっと23日の拘留をすませて彼が保釈されて来た時、私は、演奏旅行の途中。しかも東京へ戻った翌日には、ソ連への初めての海外公演に発つことになっていた。
 なかなか連絡のつかない彼に「演奏旅行先の上田へ来て欲しい」と思いきって伝言。まさか実現するとは思わなかったこの逢瀬は、今も忘れられない。
 藤本は、この時、何故か言葉少なに沈みこんでいて、私のコンサートの間に、どこかで書いた手紙を、私の手に残して、夜遅い電車で帰って行った。
 それは求愛の手紙のようでもあり、別れの手紙のようでもあった。
 翌日、その手紙を胸に、私は横浜からソ連へと船出をした。
 9月に帰国するまで40日余り。そのひと夏は長かった。