■ 40 ■ 河島英五との出逢い
2006年 秋

河島英五との出逢いは鮮烈だった。
 一九七八年暮れのほろ酔いコンサート、もちろん会場は日劇ミュージックホール。その会場にブラリと現れたのだった。
 「河島英五が来ているよ」
と客席から声がかかり、
 「それなら、ステージに上がって来てよ」
と私が言うと、のっそりと真正面に黒い影が浮かび上がり、その影はスポットライトを背中に受けて、まっすぐ私の方へ向かってくる。
 河島英五が私の前に立った時、その大きな体で私は完全につつまれてしまった。
 ステージの上なのに、二人きりで向き合っているような不思議な瞬間。
 初対面なのに照れも気負いもなくそこにいる河島英五は本当に素敵だった。
 私の突然のリクエストに答えて「酒と泪と男と女」をピアノで歌ってくれて、観客は大喝采。その頃の河島英五さんは、この歌の大ヒット中でもあり、そのユニークな風貌と独特の歌づくりで大人気、輝くばかりの若さがあふれていた。
 年が明けて七九年の一月、河島英五から曲が届いた。私は事務所のデスクに座り、カセットをまわした。
 「君にありがとう とてもありがとう
 もう逢えないあの人にありがとう
 まだ見ぬ人にありがとう
 今日まで私を支えてくれた情熱にありがとう」
 三番のこの歌詞に、私は思わず泣いていた。
 日劇のほろ酔いコンサートを観た後、大阪まで帰る新幹線の中でこの歌は出来たのだと後で英五さんが話してくれた。
 「あの日、うちの嫁さんが『子供が出来たよ』と知らせて来たんです。まだ生まれたわけじゃないんですよ。お腹に出来ただけで。それでも僕は興奮してしまって、あの歌詞になりました。」
 『まだ見ぬ人』とはつまりこれから生まれてくる子供のことだったのだ。
 この「生きてりゃいいさ」がすごくいい、というので早速レコーディングすることになり、その年の四月にシングル発売、さらに加藤登紀子と河島英五のジョイントコンサートの全国ツアーが決まった。
 この時、私の提案で、一曲づつ交互に歌い、ステージの上でお互いの歌を聞く、というやり方でジョイントしようということになった。もちろんその中でデュエットをしたり、ギターを弾いたり、ハミングをつけたりを加えて・・・。
 打ち合わせの日のことをありありと覚えている。
 私の家に現れた彼は、開口いちばん
 「すいません、食パンありますか」
と言ったのだ。
 「このところちょっと『飢え』というものがどんなものか知りたくて、何にも食べてへんのです。今ここに上がってくる時、ちょっとフラッときたんで、食べたほうがええかな、と思って、」と。
 そうしてピアノのある私の部屋に入ると、今度はテーブルの上にあった墨と筆を見つけて、
 「うわあ、ええなあ、この筆でちょっと書いてみてもいいですか」
 そう言って何やら,落書きのような、絵のようなものを新聞紙の上に書き出した。
 いっこうに打ち合わせになりそうもなく、ちょっとはらはらして見ていたが、せっかくならちゃんと紙に書いてもらっておけばよかったなあ、なんて今になって思う。
 たったひとり、シルクロードや中東を歩き、「文明」というアルバムをつくったばかりでもあった。
 ステージのトークでもその旅の時の奇想天外な話が飛び出した。
 「何日も風呂に入らんかったんですよ。そうすると皮膚がどんどん厚くなって、髪の毛もゴワゴワになって、次に風呂に入った時、なかなか洗えないんです。まず、髪をもみほぐして一本づつにしてからでないと。」などなど。
 限りなく自由であることをモットーとして来た私も、、彼の自由さには脱帽。
 その年の暮れには、「燃えろジングルベル」という曲が出来、デュエット盤でレコーディング、思い出いっぱいのジョイントコンサートは翌年もつづいた。
 いかにも強靭に見えた彼が、二〇〇一年四月一六日、あっという間に他界するなんて夢にも思わなかった。
 今年は河島英五の没後五年。なつかしさがひとしおだ。