museum ミュージアム

Queens 女

身勝手さや激しさや自我の強さをどこまでもたずさえて、
時代の嵐を一人で背負うことになる運命の女たち。
男が時に強暴に打ち立てようとするものが巨大な塔だとすれば、女のそれは巨大な木だ。
目的に向かい、登りつめ、旗を掲げる男たちが、人を洗脳し数の支持によって大きな力を得るのに対して、彼女たちは孤立によって際立ち、歳月とともに他の誰とも違うその質を強めていく。
激しさが年齢によって弱められることはなく、ある日突然に崩れることもない。
浅川マキ
1970年、二人のジョイントコンサートをした時のこの写真を見て、
ある人が「猟犬とむく犬だね。」と言った。
確かに午後の陽射しと漆黒の闇、プラスとマイナス、肯定と否定、ことごとく対極に見えた。
でもデビューから結婚までの間、彼女は一番近くで私を支えてくれた人だった。シャンソン畑の世界で孤立していた私を舞台のそでにまで来て力づけてくれた。寺山修司の演出と歌詞で黒づくめの浅川マキ像が出来上がるより前、私も彼女もミニスカートの頃だ。
それから私はギターとジーンズでメジャーになり、彼女は黒一色の世界でアンダーグラウンドの女王となった。
私が結婚したとき、新宿花園神社の縁日で「子持ちヨーヨー」というのを買って送ってくれた。
ヨーヨーの中の水の中にもう一つのヨーヨーがプカプカしてるのが「今のお登紀みたいだから」と。
娘が生まれてからも時々真夜中に電話があった。
電話の途中で娘が泣き出したとき「私に赤ん坊の声なんか聞かせないでよ。」
と言ったことを今も忘れない。
もちろん結婚はせず、ブルースとジャズとロックの粋を極めた音楽づくりを続け、今も歌っている。
誰も年齢を知らず、肉親や家族の一滴の匂いもなく、
「マキ」という女から逃げ出すことなく生き続けている。
太地喜和子
私と同い年。もうすぐ40歳という頃、対談でしみじみ語り合い、
それから一緒にお酒を飲み、酔っぱらった。
「初恋の時、演劇も全部やめて恋だけしてた」という彼女。
その後は「芝居より夢中になれる恋がなかったのよ。」と芝居に女をかけた。
その毒と艶はいつも女の真実を語っていたと思う。
結婚した女と結婚しなかった女、四十という年齢はもう一度一人で生きることにむき合う時なのだなと思った。
1993年、五十になるはずの夏に彼女は車に乗ったまま海に転落してこの世を去った。
「男の向こうに男の海が見える。」と言った私の言葉に
「そう?向こうに池しか見えない男も多いよ。」と笑っていたことがふと思い出される。
ANNA PRUCNAL
ポーランドで反体制派「連帯」への迫害が激化し、世界中がこの国の行方を見守っていた頃、
「パンクより激しいシャンソン」というキャッチのついたアンナ・プリュクナルのアルバムに出逢った。
ピアノ2台による斬新なバラード。パルチザンソングからクルト・ワイル、ジャック・ブレル、そしてジャン・マイヤンの書いたオリジナルソング。私の大好きな世界。そして全力で叫んでいる彼女の存在に圧倒された。
翌年彼女が日本へ来たとき、雑誌の対談で出会うことになった。なんだか運命のような気がした。その時私は彼女のアルバムの中のパルチザンソングを日本語訳にして歌って聞かせた。対談の後に私の母の経営している「スンガリー」へ案内しロシアの家庭料理をごちそうした。「何だか私の母の料理を食べているような気がする。私はポーランドに帰れないから母にも姉にも逢えないけれど、ここにはあなたという妹とお母さんに逢える。そう思っていい?」と彼女が言った。私とアンナとのアミティエ(友情)はこうして始まった。
アンナはもともとポーランドの若い人気女優だった。フランスから映画の撮影に来ていたジャン・マイヤンと恋に落ちた。短い逢瀬は終わり、ジャンはフランスへ。でもその恋は終わらず、アンナがジャンに「子供を作りましょうよ」と国際電話をかけた。ジャンはワルシャワへ、そして彼女に生命が芽生えた。
アンナはもちろん一人で産み育てるつもりだったけれど、出産の直前にパリに飛んだ。こうしてジャンとアンナのフランス生活が始まり、そのまま反体制派と見なされていたアンナはポーランドへの帰国が出来なくなった。
アンナの運命を変えた一人息子は、私の長女と同じ年に生まれている。
1989年、私のパリ公演の時、アンナはゲストで出演。そしてフランスのマスコミにいっぱい紹介してくれた。「登紀子は日本人の皮をかぶったスラブ人よ。声も心もね。」と・・・。
ポーランドの状況が変わり、ワルシャワへ歓呼の声で迎えられたと後で聞いた。でもその時ワルシャワが世界の噴火口である時代が終わった。
アンナは今、どうしているだろう。モンパルナスの「シェ・マリア」で泥酔していた姿が今も気になる。「アンナはアルコールなしには歌えない。」と批判するプロモーターもいた。
アンナがんばれ!いつかまた一緒に歌おう。
KHANH LY
同じ年に子供を産んだもう一人の女、カン・リー。
ベトナム戦争の中でチン・コン・ソンのつくる世界を歌い続けた歌姫。
1975年の終戦の時、三人の子供とボートでサイゴンを離れ、アメリカ西海岸へ渡った。その時抱いていた赤ん坊が私の娘と同い年。
それからもう二十年以上になるけれど、今も彼女はベトナムで歌うことが出来ない。彼女はベトナムから離れた人々の心の友として歌い続け、アメリカ全土を駆け回っている。
10数年前日本でのアジア音楽祭に参加したとき出逢って以来、ぷっつりと音信の無かった彼女が97年のはじめ突然来日し、再会した。激しい強さではなく、深い怒りでもない、柔らかくて太い、静かな情感の中に歳月がしっかりと抱きすくめられている、その姿が美しかった。夏の日比谷野音にゲストとして迎え「美しい昔」を一緒に歌った。彼女の声は水分を含んだスポンジのように、たっぷりと響き夜空を満たす。
「ベトナムの人は赦すことと忘れることが上手です。心の平和のためにずっとそのように生きて来たのですから。」と言ったチン・コン・ソンの言葉を思い出す。「人間は草や花と同じ。その土地から離れて咲くことが出来ない。」と言ったのもチン・コン・ソン。遠い乾いたロサンゼルスで故郷への想いを募らせる人々が故郷へ帰るのはいつのことだろう。
カン・リーの歌う「美しい昔」、この恋唄にこめられたものの大きさを,私は大切に歌い続けたいと思う。