museum ミュージアム

Friends 出逢い

f

「その人とどこまでも一緒に行けると決めるのにたった2秒あれば充分だ。」と言った人がいた。そう、大切な出逢いというものは、そのくらい時間の妙であり、縁なのだと私も思う。
 まずは父と母の出逢い。のんべえで歌好きで「人生は面白うて面白うてかなわんわ」と豪快極まりない人生をおくった父。いつもカッコイイ女であり、勝ち気で聡明、働き者だけど時にはホロリとさせる可愛らしさを持っている母。二人とも人と出会うことが大好き。時代が時代だけに生きるか死ぬかの波の間を、陽気に笑いながら支え会って生き抜いた人々との深い絆には胸打たれるものがある。
 私が中学2年生の時、父が故郷を失くしたロシア人たちの働き場をつくろうとロシア料理店を開いた。以来40年余り『スンガリー』という我が家のキッチンは続いている。表参道に「テアトロスンガリー青山」が出来てからは、好きに飲み歌える場としてのキッチン。いくつもの出逢いがここから始まり、ここで深められ、交叉した。

 中国東北部出身の胡弓奏者、楊興新。TBSの永六輔さんの番組で、偶然の出逢いだった。彼の人なつっこさは強烈ですぐ姉弟のような気持ちにさせられてしまった。見かけによらず気むずかしいところもあって、「あの人キライ」と言ったらテコでも動かない。
 中国での紅衛兵時代の苦しみ、仏教者だった父親の長い獄中生活への想い、辛酸をなめた母の生涯への愛惜など、皮膚のすぐ下にうずいている心が私にはとてもいとおしい。ずっと私は彼の味方です。
1991年6月「テアトロスンガリー青山」開店の日に出逢い、その時は「ユーゴの歌手」と紹介された。それからあっという間に内戦が始まり、故郷サラエボに帰れないまま日本滞在が続いたヤドランカ。素晴らしい声とやわらかな美しい自作曲。そして絵を描く人でもある。恋人と離れ、母親を失くしたヤドランカ。どうしていますか。ちょっと連絡がないと心配。
 ラトゥルスネイク・アニー。アメリカで歌った時の私の小さな記事を見て、「日本に行ったら訪ねよう」思っていたそうだ。人伝えに私の住所を調べ御主人で画家のマックスと私のアトリエに訪ねてきた。ウィリー・ネルソンが大尊敬していたというカントリーブルースの女王。「テネシーのパリで生まれたチェロキーインディアンとアイリッシュの混血のアメリカ人」私にはいつもとても分かりやすい英語で話しかけてくれる。一年に一枚はCDアルバムを自主制作しそれをカバンに詰めて世界中で歌っている。ドイツ、スイス、イギリス、チェコ、メキシコ・・・そしてスペインのマラガに住み、故郷のテネシーにオフィスを置いている。
 日本で歌う場を少しずつ広めもう8年近くになる。年齢は二歳違い、誕生日は一日違い。私はちょっとだけ妹。自分一人の力でシンガーとしての生活を仕切っている彼女に教えられることは多い。「ひとつのトランク、ひとつのギター、男ひとり、それだけあればほかに何もいらない。」と彼女が言ったら、水上勉さんが「贅沢な人だなぁ。それは充分すぎるよ。」と笑ってたっけ。
 自由で孤独で、だから強くてやさしい。それが私のめぐり逢った人たち。
 最後にもう一人。私にとっては圧倒的なボスだった石井好子さん。
私がシャンソンコンクールで優勝して石井音楽事務所に入ったとき、石井さんはまだ40歳を過ぎたばかりの頃だ。それでも人を動かす力、気配りはすごかった。「その長ったらしい髪の毛何とかしなさい。」とか「目が小さいから一センチくらい目バリ入れなくちゃね。」とかいろいろ言われたっけ。現在も私にとっては20歳の年齢の幅のままの迫力には変わりないけれど、私の結婚の時、石井さんの素早い決断で助けられたこと。そして石井さんが御主人を亡くされた時の悲しみの深さを目の当たりにしたこと、忘れられない。
 一人の女としての、そして激しい女の歌を好む一人の歌い手としての石井さんの、深い理解者でありたいと今は思っている。女にとって年齢は絶対に味方。決してその人の持つものを弱めたりはしないんだなぁと石井さんを見ていて思う。

Someone once said to me, It only takes two seconds to decide whether we will stay with a person forever. This is probably so.I think that a precious encounter is the mystery of the moment, as well as destiny.
For example, my father and mother encountered one another. My father, who was quite a drinker and loved to sing, lived a most dynamic life, saying, Life was so interesting, I loved it!モハ While my mother, who has always been cool, is strong-minded and clever, hard working and warmhearted, sometimes irresistibly charming. They both loved to meet people.ハ Buffeted by very difficult times in history, they made close bonds of friendship with people who have all supported each other and laughed together. This has really moved me.
When I was in the second year of junior high school, my father opened a Russian restaurant so he could offer jobs to Russian people who came to Japan after losing their homes. Since then, for more than 40 years, SUNGARY, our kitchen, has been running. Opening a new restaurant, Theatre Sungary Aoyama, in Omote-sando, our kitchen became a place where we could drink and perform together, as we liked.Numerous encounters have taken place there, have been shared, and have deepened.