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1994年 秋 受験生行進曲

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 16の夏が過ぎ、目の覚めるような秋がきた。9月の学園祭で、はじめてのクラス演劇。「三年寝太郎」のばあさん役でなかなかの好演!? 顔じゅうに皺を書き、髪をまっ白にして老婆になりきった演技は、我ながら真情のこもったものだったし、高校生演劇としては、本格的なメイクと衣装をつけて、とてもとても盛り上がった。
 安保のせいもあったかもしれないが、この年の学園祭は実に活気があったし、このクラスの結束も堅く、駒場KHK放送局の活動も深みをました。毎日、真っ暗になるまで学校にいて、男の子に送ってもらったりするのがまた楽しくて、そのくせ、駅から家までの道を好きな男の子と一言も口のきけないまま歩いた切ない思春期でもあった。
 10月には、東北に修学旅行。紅葉の美しさと、急に大人びた気持ちで男の子を見つめた劇的なときめきが一つになって思い出される。
 一方では、安保闘争ではじまった学校外の高校生活動も続いていて、私もそこに少し係わっていた。私達の学校より本格的に盛り上がった学校では、その頃ぞくぞくと中退者が出たり、地方から家出をして東京へ出て来る高校生もいて、動乱の後の地殻変動に、もみくちゃになっている時代だった。
 高2の秋といえば大学受験がそろそろ気になるシーズンだけれど、そんなレールからは完全にドロップアウトした一群がそこにいた。
 私はといえば、1年の頃までかなりよかった成績がすっかり下降しており、ある日先生に呼び付けられた。
「君は東大をめざしているそうだが、今の成績では、絶対に無理だ。そろそろ勉強に専念したらどうだ」。生意気盛りの私は、ふくれ顔をして言い返した。「高校生活は受験のためにあるもんじゃありません!」
 東大は無理と言われたばっかりにかえって先生への反発から東大を受けることに決心がついて、その意味では先生のお叱りは効果があったのかも知れない。とはいえ、高3に入っても、秋にはクラス演劇、生徒会活動と、活発に動いていた。演出家をめざしていた佐藤信などはもう自主演劇の公演を外でうったり、同人誌を編集したりしていて、その近所にいる私も勉強に専念などしていられない気分だった。
 渋谷あたりのジャズ喫茶や、新宿の風月堂に前衛的な動きが火を吹きはじめた頃、高校生もその端くれに食い込んでいたのだ。まだまだ内気な私はそんな一群を見守りながらも結局自分からは何もせずにいて、とてもはがゆかった。大学にゆく決心と外の動きへの誘惑の間で結局勉強へ逃げ込んだのは多分、その気おくれのせいもあったかなと思う。
 勉強はもともと好きなほうだったから苦しくはなかったけれど、秋が過ぎ、冬が過ぎ、試験の日が近づくと、とてつもない不安におそわれて、夜眠ってもいやな夢ばかり見ることが続いたりした。東大への夢もどんどんさめて、なんとか期待感を自分なりにかき立ててみるんだけれど、本気になれないジレンマもあった。
 結局、後に残ったのは何となく負けたくない気持。それでとにかく頑張って受験にたどりついた。まさか受かるとは思わなかったので、発表の朝、駿台予備校に申込みをして浪人覚悟の軽い気分で発表を見にいった。
 自分の番号があるのを見た時はさすがに嬉しかった。帰り道、井の頭線に一人で乗っていて、どうしても、にたっ、と嬉しそうにしてしまうのを我慢するのが大変だったのを覚えている。
 受験を目前にした人が、この文章を読まれるかもしれないからひとつだけ、その時の私のわざをお話しましょう。まず「出来ない問題」は、まったく意に介せず当然解かない。「出来る問題」だけ有りがたく解く。つまり出来なくて当り前と思いこむ心理的余裕! もっとも私の娘の高校の先生にはっきり言われたことがある。「受験も昔と違って一段と厳しく、お母さんの頃とは事情が違いますから」
 なぜだか、世の中は、受験を一段と厳しくしているようだけれど、今になってみるとその門の前に立って、仕方なくその門に入るために頑張るんだけれど別の門から入ってもいいし、門を潜らなくても未来はそれぞれに開けるものだったんだと気が付く。
 人生は思ったよりずっと広く、ずっと良いものだと……。