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1995年 春・夏 恋の予感

sho06
 大学に入ってひと夏が過ぎたころ、私は、やっと劇研(東大演劇研究会)の所在をつかんだ。大島渚の代表作「日本の夜と霧」の原作を書いた、菅孝行、それに福田善之、別役実など、新しい演劇の担い手を送り出したグループ。
 受験勉強の途中から私にはこの劇研が大きな目標になっていた。けれど、入学した当時、劇研の活動は教養学部では見つけられなくて、大いに落胆していたのだった。
 夏休みの間に、メンバーの1人と出逢ったのがきっかけで、秋から私も加わって活動を再開することになった。
 11月の駒場祭にむけて、早速活動開始。例年になく私を含めて1年生の女子が3人も加わり一段と華やかなすべり出しとなった。
 銀杏の木の下に円陣を組んで、でっかい声で「アーエーイーオーウー」複式呼吸の訓練だ。教室に向かう学生の流れからすっかりはずれて、この変な群の中にいることが嬉しくてならなかった。
 選んだレパートリーは福田善之作「長い墓標の列」。
 第二次大戦の最中、転向をしていく学者がほとんどだった中で、頑固に左派でありつづけた大学教授の話。私はその教授婦人の役だった。
 古い着物を母から借り、またもや顔にしわを書いてふけ役。高2の時に「三年寝太郎」の婆さんを演じてからの宿命か、それ以後、私の役はいつもフケ役と決まってしまった。
 翌年の五月祭の時も、50才位の着物の奥さん役。その次の秋は、30代から60代までを演じるアーノールド・ウェスカー作の「大麦入りのチキンスープ」のサラ役。主役ではあるけどほとんど三枚目。稽古のはじめから、下町のおばさんのガニ股歩きができてるって演出家に誉められたりして……。その時の美人の娘役は早稲田演劇科からの客演ときまった。顔にはださないまでも心の中はわずかに揺れた。団員の学生がなぜか被女にだけ特別の愛情を示すようで……。
 でも、それはそれ、全体のまとめ役、みんなのサラちゃんという誇りをもって女心は押さえ込む。公演までの日々は、もう必死だった。チケット販売、メンバーのもめごとの仲裁、遅れそうになるスケジュールをこなし、男たちの面倒を見る。
 とかくコミュニケーションの下手な頑固ものぞろいで、議論を始めると折り合うことを知らない。加えて女の団員はというと、すねたり、甘えたりのぐじぐじ路線。誰もかれも、いとしく、可愛いが、集団行動は骨が折れる。ラブアフェアーのお手伝いまでさせられて、女親分もついに切なさでプッツン状態。公演終了と同時に劇研とサヨナラする決心をしてしまった。
 折りしも19才も終わりの晩秋。
 グループの中にいた片想いの男に、それらしき想い一言も言えぬまま、えいっ、何もかもふっきってしまおうと意を決めたのだった。