museum ミュージアム

1995年 秋 嵐の恋

sho07
 1963年12月、20歳の誕生日を目前にしたあの日のことだ。
 早稲田大学、大隈講堂、その夜の演劇がいったい何だったかは覚えてもいない。幕が降り、さほど多くもない観客がぞろぞろと表にむかって出てゆく、その後からゆっくりと席を立った私。前の方の座席からステージに背を向け、うつむきがちに歩き出すと、突然一人の男がその通路を人の波とは反対にこっちに向かって歩いてきたのだ。
 黒いサングラス、安っぽいが一応サラリーマン風の背広、肩をほんの少しそびやかすように上げて歩く、独特のスタイルにかすかに覚えがある。
 目の前まで来たその男は、まぎれもなく、60年安保のころ、高1のくせに高校生組織のリーダーになっていて、その後突然どこかへ消えてしまっていた男の子だった。がらりと大人っぽくなっちゃって、まるで詐欺師のようだ。
「似合わないわよ」と私はサングラスを取り上げた。おかしそうにまっすぐにこっちを見る目には、3年前のキラキラした子供っぽさが消えて、射るような鋭さに変わっていた。
 安保の頃、高校生活に戻れずドロップアウトした高校生はものすごくたくさんいて、たいていは大学受験どころではなく、自殺したといううわさや、家を出たまま消息がわからないといううわさがあちこちから聞こえていた。
 彼も、そんな気になる男の1人だった。
 その夜の私は、きっぱりと恋の名残りを切り捨てたばかりの、とびきりの女だったから、その男の子の目を堂々とぱっちり見返すことができたのだ。相手のサングラスを挨拶もなしに取り上げた瞬間、2人は不思議な空間にはまりこんでしまった。別段仲がよかったわけじゃないけれど、孤立した共犯者の再会はあまりにドラマチックだったのだ。
 その夜は、彼と来ていた数人の昔の仲間とも再会し、新宿界隈でしこたま飲むという結果になったけれど、私はもう他の誰にも興味がなく、彼しか見ていなかった。彼も、そんな私をさも面白そうに見守っていて、いつしかまわりの連中も「2人はいったいどうしちゃったんだ」みたいに、冷やかし半分に、どこかへ消えてしまった。
 これまでは誰かを好きになっても態度に示すことすらできなかった私なのに、この夜は、まるで魔法使いのように振る舞えた。いつしかふたりは、真っ暗な夜空の下を寒風に吹きさらされて歩いていた。耳のそばに風がビュンビュン音を立てる。身を寄せ合うと胸の鼓動がドキドキ伝わってくる。
 ふいに、彼が私にキスをした。私も多分それを予感していたに違いなかった。なのに私はその瞬間に彼の頬っぺたをひっぱたいてしまっていた。
 なんだかよく分からない。失望なのか、反射的な拒否。キスがなれなれしかったのか。はじめてだった私は何だか、そのことに裏切られたような気持ちもあった。
 その夜は、それまでも2人は何だか離れられなくなってしまって、その不思議な時間のまま歩きまわった。空は満天の星―。
 嵐のような恋は、そんなふうに始まり、そして吹きやむことなく、すばらしく輝き、そして荒れに荒れたのだった。
 恋する心に敏感な彼は、実に恋多き男でもあったのだ。かといって浮気っぽいというのではない。どれも本気といった方がいいのかもしれない。事実私とキスをした数日後、彼がかって同棲していた年上の女性が現れた。彼は隠すこともしなかった。
「僕の愛したひとだから、君に逢わせたい」と。
 それで、私たちは3人で逢うことにしたのだった。何ということだろうか、私はわざわざ彼に言ってしまったのだ。「愛した人を平気で裏切れるような人であってほしくないから、その人を大切にしてあげて」と。
 そして、渋谷の道玄坂上の喫茶店で、私たち3人は落ち合った。なげやりなともいえる独特の静けさを持ったその女性との間に火花が散ることもなく、終わりの儀式は始まったのだ。
 私が言いだした以上仕方がない。今夜は彼と彼女の終わりのための夜なのだから。2人は私にさよならをして行ってしまった。