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1995年 冬 歌への出帆

sho08
 この社会のどの場所にも所属せず、一切の労働を拒否し、現実社会の価値から、最も遠くに生きようとする反逆的放浪、ビートニクと呼ばれたそんな生き方がまだ有り得た時代だった。貧しさが誇りであり、たまにお金を持っている人間がいようものなら、そのお金は文字通りみんなの共有物とみなされた。誰がお金を払っているのかよくわからないまま、毎夜毎夜、夜明けまで飲み歩いて、誰もかれもが平気でいられた、変な時代。
 私は、といえば当時、最も貧しい家庭の学生に送られる、特別奨学金というのを、1ヶ月4500円をもらっていて、あとは我が家の経営する、ロシア・レストラン、スンガリーで、時々バイトをしてお小遣いを稼いでいたから、割合、お金を持っている方だったかもしれない。
 それでも、古本屋に本を持っていって、わずかなお小遣いを手に入れては、夜な夜なの徘徊の軍資金にしていた。
 恋が始まった時、まだ19才の彼は、ある小さな税務関係の事務所に就職していて、一応、社会人していた。私はお弁当を作っては、その会社の近くの公園で待って、お昼ご飯を一緒に食べ、夕方までを、近くの図書館か何かで時間潰しをして、また夕方、おち合って、あちこち歩いたり、飲んだりしていた。どっちみち、お金に余裕がないから、ただひたすら、夜道を歩き続けることもあった。でもそのうちに、ある日彼が会社を止めた。
 私たちの心の片隅にあった、ビートニク的意識が、それにブレーキを掛けることを許さず、この世の外に、2人きりで、行ってしまいたいような、気持ちにつき動かされて、すべての関係から自由になろうとしていたのだった。
 母から自立したくて、スンガリーとは別のバイトを捜そうともした。2人で暮らしたいと、アパートを探したりもした。結局は、お金もなく、自由もなく、未来もない、孤立無援の2人。
 演劇を離れ、学生運動とも無縁になってしまうと、学校へ行く必要も気持ちも失せて、毎日毎日ただ恋することだけ。昼も夜も自分自身と向き合ってただひたすら恋人といる。本を読みあさったのも、映画をむさぼったのも、ジャズスポットにひたりこんだのも、全てこの時期だった。母は「お願いだから12時までには家に帰ってよ。一緒に暮らしてるんだから、そのくらいは最低限の約束よ」と言いだした。ところが私は、猛然と反発して、それからは12時前には帰らない決心をしてしまった。お陰で寒い駅で時計が12時になるのを待って、くたくたになったりしていた。
 「壊された大地の上に」という本の中に、この時期に書き散らしたノートがある。私の心の奥深くしまわれた密造酒、その最初のかぐわしき一本はたしかにこの時代のものだ。
 そうするうちに、ある日、父が驚くような提案をしたのだった。「シャンソン・コンクールに申し込んできたよ。時々、やってる鼻うたがなかなかいい。受けてみろや。」
 この提案は、正直、すごいインパクトだった。何にでも反発していた私だったけれど、あまりに思いがけない提案だったために、頭の中が真っ白だ。出口なし状態に自分から追い込んでしまっていた私にとって、暗闇に射しこんだ光だった。
 夜道を歩きながら、いつの間にか、歌うことが癖になっていた私に、「ほかの誰にもない声だね。」と彼が言ってくれたことも、その気になった要因ではあった。
 演劇時代の終わり頃、「これからの演劇には音楽が欠かせない。歌くらい歌えなきゃ。」と言い出す人がいて、みんなで、稽古場でてんでに、おもいつくままに歌ったりしていた。私はその頃流行の越路吹雪さんの「ラスト・ダンスを私に」が18番で、松尾和子さんの「再会」や西田左知子さんの「アカシアの雨」は、夜道を歩く時の定番だった。
 突然の生活転換は、私の得意とするところで、すぐさま、私は行動を開始した。まず、シャンソンのレッスンに通い始めた。
 「コンクールに1位になりたいので」と先生に話したら笑われて、「自信はあるのですか?」と聞かれ「なくはありません。」などと答えたのを覚えている。
 結局のところ、その年の夏は、4位、それから1年たった2回目のコンクールまで、私の船出はおあずけということになったのだが…。
 それはまた後の話。