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1996年 春・夏 デビューへの階段

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 はじめてのキス、そして20歳の誕生日をむかえた、翌年の夏、私は日本アマチュア・シャンソンコンクールの1回目に参加することになった。父が勝手に申し込んできたときには、びっくりしたけれど、演劇活動から離れ、恋愛三昧のほかに見える未来を持たなかった私は、この話に飛びついた。なんとタイムリーな提案だったかと、今も父は流石だなと思う。
 コンクールに優勝すると、ヨーロッパ旅行に行けると聞いて、日本脱出をねらう気持ちも動いた。
 もしかしたら優勝できるかもしれないと、思うあたり、私もずうずうしいなあと思うけれど、一方、そんな不遜な少女を一位に選ばなかったコンクール側も偉い!コンクール参加曲は、「メアー・キュルパ」(7つの大罪)という、ものすごい激烈な愛を歌った、エディット・ピアフのシャンソン。
 はじめての恋に過激にのめりこんでいたその頃の私の心意気がこめられていた。ところが、審査委員長の芦原英了さんは、こういって批判した。
「あなたみたいな、まだ子供の顔で、ピアフのうたは無理ですよ。この次は、もっと年相応の歌をえらんでいらっしゃい。」
というわけで、私は最初のかけは、失敗に終わり、翌年再度挑戦という目標だけが残った。
コンクールのために入門した先生のレッスンを続けることにして、ここから本格的なシャンソンの勉強が始まったのだ。
「銀巴里」で昼間のお客さんのいないステージをつかわせてもらって歌う練習があったり、発表会で、大勢出場することがあったり、レパートリーもいくつか増えて、少しずつ本格的になっていった。
 ところが、これも神様のいたずらなのか、私はひどい喘息症状にかかってしまった。
生意気に喫いはじめた煙草のせいか、急に歌いだしたせいなのか、原因はわからない。病院も何日も通って検査しても、「どこも悪くありませんよ。」と迷惑そうに言われてしまうありさま。あれは心因性の症状だったのだろうか。
 調子をくずしてからというもの、なんだか絶望的になってしまって、「歌をあきらめろ」といわれてる気がして、いろんな音楽を聴くたびに、泣けて泣けてたまらない。「こんなに歌いたかったのか。」って、自分でも驚いてしまうくらい。
 そんな私のあがきを横目に母は、「“百日咳”じゃないの。」って笑って見ていた。どうしてそんなことが言えたんだろう。不思議なことに3ヶ月余りで、ぴったりとその症状がなおったのだ。この試練のお陰で、私の歌手願望の気持ちはいよいよかたまってきた。
コンクール用の1曲だけしか歌えるうたがなかった前の私とは違う。
 第2回目のコンクールを受けるころ、目的はもう日本脱出ではなかった。春が過ぎて、夏が来て、ついに決勝の日が近づいた。今度は若々しくポップ調のシャンソン「ジョナタン・エ・マリ」、テーマは初恋だ。名歌手の歌ったものを避け、誰も知らない新作を見つけてくる作戦を手伝ってくれたのは父だった。
 そのころ、まだNHKが内幸町にあったころで、その向かい側の飛行船スタジオという録音スタジオが父の仕事場だった。そのスタジオで練習用の録音をとることもできたし、わたしはずいぶん恵まれていたものだ。バイトを続けていた、ロシアレストラン「スンガリー」の方でも応援団が出来てきた。フジテレビの「小川宏ショー」のスタッフが、ここをたまり場にしていたので、コンクールの優勝者がすぐ翌日、この番組に出演することに決まってからは、「がんばれよ!スタジオで待ってるぞ」の大合唱。
 決勝の7月11日の前夜には、もう前祝をしてくれる人までいる盛り上がりだった。とはいえ、当の本人は、ますます追い込まれて、一昨年のようにのん気ではいられない。フランス語の歌詞が、頭の中から消えてしまいそうな恐怖にふるえながら、ついに優勝をとげた。
 一気に、ラジオや新聞のインタビュー、そして7月14日には、日比谷野音の「パリ祭」の舞台に出演ということで、あわただしく幕は切っておとされた。8月の末には、ハンブルグ、パリ、ローマへの旅に出かけ、10月には日本グラモフォンへの所属が決まった。それだけ見れば、まさに華々しきデビューだ。けれど、ここからが実は苦難の始まり。デビュー曲にたどりつくまでの半年、忙しい毎日を切り抜けていかなければならなかった。
 1965年、21歳、学校生活はとっくに遠い出来事になっていた。