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1996年 冬 花も実もまだ苦し

sho11
 途方に暮れる23歳の春、新人賞を受賞し、歌手としての2年目をむかえていた私は学生としての転機に立たされていた。留年も2年目に入り、退学か卒業かの選択をしなければいけない。
 当時、野坂昭如、青島幸男、大橋巨泉など、早稲田は中退組が大受けの時代、「大学は中退こそ格好がいい」という風潮もあって、いっそ逃げようかという気持ちもあったけれだ、久しぶりにキャンパスを歩くと妙に懐かしくて、歌手としての半端な自分が情けなく、心が揺れた。
 ただ忙しさだけは一人前で、様にならないアイドル歌手はただおろおろとテレビの演芸番組のレギュラーをこなし、クイズ番組やボーリング大会まで、美人とはいえない顔に、下手な化粧をして走りまわり、わずかなレパートリーで旅まわりのコンサートもやっていた。
 私はどうも小さいころから心の中では、くよくよ泣きべそをかいていて、態度は平然と見えるという特殊な技があるらしく、今、思い返しても、歌手デビューからの3年は地獄のような気持ちだったのに、外からは結構、落ち着き払って見えていたらしい。
「あの頃は可愛かったよね。悪いこと何も知らないって感じでさ、そのくせ結構しぶとくって、気が強いんだよ」と中村八大さんがよく笑いながら言っていた。
 デビューしてすぐに中村八大コンサートのゲスト歌手として日本全国を歩いた時、永六輔さんが飛び入りで入って来たことがあった。私の歌の後つかつかとステージに上がると、「あの子はおしいよ、歌はまあまあだけど、しゃべると台なしだね」って言い出した。顔から火が出るほど、恥ずかしく、舞台の袖で聞いていた。
 ステージから降りた永さんがそんな私の顔を見て、こう言った。「君、平気な顔してるね、泣かないの?」「だってその通りですから」って私は言い返した。永さんも意地が悪いねえ、さもうれしそうに私の顔を見ていたっけ。
 そう言えば、このお二人も早稲田中退組だったかしら。
 事務所の社長だった石井好子さんは、「あなた、絶対卒業しときなさい。後で何か違ってくるわよ」と忠告してくださる。
 結局、やるだけやってみるということで1週間の受講表をびっちりとうめて学生課に提出した。本郷で取らなきゃいけない単位を3年間で17単位しか取っていなかったから、卒業するには1年間で55単位必要だった。 文学部の授業だけでは足りなくて、法学部の講義も受けることにした。これにはちょっと訳があって、戦争中、父の部下だった人が法学部の国際法の教授をしていて、確実に単位をもらえそうだからなんて、甘い考えもあった。
 受講する決心はしたものの、仕事はただバタバタと忙しく、ほとんど学校へ行く時間はない。西洋史のゼミの堀米庸三先生は「半分以上の出席がなければ単位はあげないよ」と厳しいので、スケジュール表に赤い字で書き込んで出席を死守した。幸い午前中だったのでどうにかクリア。
 もう1人のゼミの林健太郎先生は午後3時ころの授業だったので、なかなか難しい。でもそこは気がきく。「君は忙しいんだろう、無理に出席しなくても単位はあげます。そのかわりレポート1回はしてくださいよ」というわけで、学生生活6年目の1年間は卒業を目標に、なおかつ、せっかくの新人賞を無駄にしないように仕事も目一杯、という忙しい年になった。
「赤い風船」という新路線はよかったけれど、まわりは相変わらずの演歌時代、仕事はいつも演歌の人と一緒だった。時にはお祭りのアトラクションというのもあって、神社の境内の紅白幕の中で歌うなんてこともある。演歌の人がヤンヤの拍子を受けて大見得切った後に、司合者が「シャンソン歌手の加藤登紀子さん」と紹介するとそれだけで場が何か白ける。
 数曲のレコーディングした持ち歌のほかは、フランス語で歌うシャンソンか英語で歌うフォークソングしか歌うものがなかった私は、この居心地の悪さに胸が張り裂けそうだった。
 1年間に3枚のシングルを出し、どれもヒットせず、おまけに初めてのアルバム「赤い風船」は好調な発売をしたのに、1週間で発売停止。私の歌ったシャンソンの歌詞が著作権のある定訳じゃなかったことが理由だった。単純に手続きの失敗。
 これだけ書き連ねると、まったくドジなんだとあきれてしまう。花も実もまだまだ。仕事は甘くないし、なかなかうまくいかないが、遂げられないから止められない。万事がうまくいかない時こそ大事、苦い実もすっぱい実もいつか甘くなる日が来るまでは……。