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1997年 春・夏 卒 業

sho12
 人生には、もちろんいくつもいくつも「イフ」がある。もしあの時、結果が違っていたら? もしあの時、違った選択をしていたら?
 すべてを自分自身が決めたんだと自負していても、偶然の振り子に左右されながらストーリーは決められてゆく。すべてがまだ未知数だらけだった20代、ほとんどすべての運命は、そんな偶然のサイコロに、翻訳されていたといってもいい! けれど、どうだろう長い年月を経てふりかえって見ると、いくつかの道筋を通って結局は同じ海に流れ込む川のように、私は私の海へたどり着くより他にはありようがなかったんだなと思う。
 新人賞が決まる直前、私は、銀巴里の先輩、工藤勉さんに誘われて彼のリサイタルにゲスト出演していた。
「さようなら」という歌を、このコンサートで、うたったことを今でも異様なほど覚えている。
 学生生活から芸能界へ飛び立ったつもりでも、心の中は学生たちへの思いでいっぱいだったし、毎晩のように飲み歩く友達は、いっぱしのアバンギャルドの芸術家たちばかり。半端にプロになった私は、自分の現状が恥ずかしくてならなかった。
 そのコンサートではじめてやっと、私のシャンソンと呼べるオリジナルをステージに出せた。その時、私は心の中でデビュー以来の空しい日々に決別を告げる離陸音を聞いていたような気がする。
「さようなら」は、私がひきずっていた学生の群像へのさようならであり、本当の一歩を踏み出すためのさようならでもあったはずだ。
 そして忘れもしない銀巴里に出演していた67年10月8日の夜、羽田近くの高速道路で学生が一人殺されたというニュースが飛び込んで来た。直接の関係は何もなかったけれど、私は気持ちを抑えることができなかった。
「死んだ京大生、山崎博昭くんに捧げます。」とコメントして歌った「さようなら」。
 途中からは涙があふれて、歌えなくなった。その時伴奏のピアノを弾いていた、エミール・ステルンは、私のあふれる涙を両腕で抱きとめるように美しいピアノを弾きつづけてくれた。何の迷いもなくそのピアノに身をゆだねた数分の嵐を今も忘れることができない。
 この羽田事件は、68年の佐世保闘争へ、世の中を大きくゆさぶる導火線となった。そして私の人生の流れを帰る大きな伏線でもあった。もちろん、その時には知るよしもないけれど……。
 年が明けて、卒業の春が近づき、私は、演奏旅行と、卒業試験のやりくりに追われていた。キャンパスの中を歩き、本を読みまくり、友達を探しノートを借り、遠ざかっていた学校の生活に接するうちに、何か、情けないような喪失感におそわれもした。いったい、この2年間私は何をしてたんだそうと。
 ちょうど佐世保事件が燃えさかったすぐ後に私の佐世保のコンサートがあった。コンサートの後に小さな集いがあり、高校生を含む若い人々が佐世保の体験を話してくれたことをよく覚えている。
 2歳10ヶ月で中国から引き揚げた佐世保、そして今度はベトナムへの攻撃を強めた米軍基地の街として再び日本の歴史をゆさぶった佐世保……。
 その夜、私は不思議な夢を見た。
 私と母と姉がたたずんでいる広い草っぱらの向こうから米軍の兵隊が一直線に列をつくってやってくる。私たち3人は、逃げもせずにたたずんでいて、米兵の銃が私の心臓めがけて撃ちこまれた。その瞬間、私は飛び上がり、その弾をお腹にうける。夢だから、死にもせず、怪我もせず、でもただ鮮烈にイメージが残った。2つの佐世保が私の夢の中で一つになっていたのだ。
 試験が終わり、やっと単位を手に入れてあとは卒業。その日を待ち望む私は、気の早い週刊誌に、卒業証書を手にふりそで姿のグラビア写真を撮られるなんていう日々を送っていた。
 ところが、卒業式の前日、テレビでは東大の全共闘による卒業式ボイコットのニュースを伝えていた。無難に新人歌手としての仕事をやりすごして来た私も、これはもう逃げようがない。重大な決断をせまられていた。
 結局、私はジーンズとTシャツの軽装でキャンパスへ行った。安田講堂の前には、学生が座り込んでいる。迷いながらも私はその輪の中へ入った。すると昔の友達が声をかけて来た。あっちにもこっちにも知った顔がある! うれしかった。空に投げたボールが、また自分の手に帰って来るように、遠ざかっていた日々の中に私はいた。学生生活のピリオドを打つにはまさにうってつけの卒業式だった。