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1997年 秋 神様の命令

sho13
 卒業式の夜、お祝いのパーティーがあった。
 本当なら、振袖姿で華やかにという芸能チックなパーティーのはずだったのが、「卒業式ボイコット」という事態になり、ジーンズで座り込みに参加した私の気持ちは、そんな思いとは反対側にいた。けれど、親しい新聞記者は、みんな私に拍手を送ってくれて、かえって意味ありげなパーティーとなった。
 ある新聞記者が私にこんなことを言った。
「犬が人間をかんでも記事にはならないが、人間が犬をかむと記事になる。今日のおときさんはそうだよ。」
 あ、そういうことかと少しひんやりした気持ちで受け止めたこの言葉、その後もいく度か思い出すことがあった。
 歌手が作品をつくり、歌をうたうことは、なかなか記事にしてもらえない。予想外のこと、事件、私生活。そればっかり追いかけたがるジャーナリズムの生理に苦しみもした。
 けれど、よりによって、どうしてなの、というくらい、事件と私の行動が交叉してしまう不思議は確かにある。これも神様の命令か。
 週刊誌のグラビアにデモ姿が出たことがきっかけだったか、3月の末、学生運動をしている友達から電話があり、リーダーの藤本敏夫という男を紹介したいと電話があった。
 新宿歌舞伎町の「スンガリー」で逢うことになった。白地にピンクとブルーの花模様、今では考えられない可愛いいファッションでそこへ行った。藤本は黒いズボンに白いワイシャツ、上から3つまでボタンをはずした清潔な服装で現われた。明治大学の学生会館に寝泊りしているにしては、おしゃれだ。汗くさくて、汚くて、うるさい学生たちのイメージの中で、それは際立ってみえた。
 「学生の集合に来て歌ってもらえませんか」彼の用件はこれだった。
 私は、少しばかり学生運動にかかわり、精神的に傷ついてもいたから、何を今さら、という気もして、すぐさま断わった。
「政治スローガンに迎合して歌うのはいや。それに、歌って踊って楽しく、なんていうやり方を政治の場に持ち込むのは駄目だって、よく批判したじゃない?」
 彼は一切反論しない。すんなり、「そうですね」ということになった。
 あとは何を話したか覚えていない。ただ、「飲もうよ」ということで、盛り上がった。 「いや、あの時は、ごちそうになったな、食いもんと酒に飢えてたからな。」と藤本は後に言っている。
 私は惚れっぽい女だから、目の前の男の世界のとりこになってしまうことは珍しくないし、その度に恋に墜ちるわけでもない。ただこの夜、「茶漬けが食いたいな」という彼の一言のために、明けの方の4時半ごろ、わが家で、お茶漬けをごちそうしたり、代々木駅の始発電車を見送りに行ったり、そんなことまでした私は、冷静であったとは言えないかも知れない。
 代々木のプラットホームで電車に乗り込む時みんなに私は手を振った。なのに藤本だけは振り向きもしない。視線をはずしたまま、朝刊を片手にさっさと自分の世界に入っていく男の姿が、心にしっかり残ってしまった。
 2度と逢うことはないと思ったのに、3日ほどして、電話があった。
 代々木駅前のドリアンという店で、と約束。けれど彼は、閉店まで来なかった。何か事件でもあったのかと、胸騒ぎして、思いきって明大の連絡先へ電話を入れると、迷惑そうな声で誰かが「あなたに逢いにいきましたよ」。
 ついに店の電気が消え、「ほたるの光」に送られて表へ出た。すると、別の階から出てきた男がもう1人いる!
 なんと、2人は別の階で何時間も待ったことになる。そのまま、淡々と歩き出して、渋谷まで行き、再びその夜も明け方近くまで、飲みかつ食べた。
 それがルンペン学生の生きる手だてだったか、恋心だったか問いつめたことはない。私はたいてい彼の話しの聞き役、私の何が気に入ってるのかもわからなかった。ただ別れる時には必ず次に逢うことを約束した。1週間に1度か2度。けれどその年は、彼にとって多忙の年。しかも1年の半分以上が拘置所だった。
 5月、神田カルチェラタン。パリの五月革命に呼応して、お茶の水の学生街が燃えてきた。大阪からの飛行機の中で、藤本がお茶の水駅前で逮捕された記事を読み、それでも約束のゴールデン街の店へ行った夜もあった。
 6月、やっと23日の拘留をすませて彼が保釈されて来た時、私は、演奏旅行の途中。しかも東京へ戻った翌日には、ソ連への初めての海外公演に発つことになっていた。
 なかなか連絡のつかない彼に「演奏旅行先の上田へ来て欲しい」と思いきって伝言。まさか実現するとは思わなかったこの逢瀬は、今も忘れられない。
 藤本は、この時、何故か言葉少なに沈みこんでいて、私のコンサートの間に、どこかで書いた手紙を、私の手に残して、夜遅い電車で帰って行った。
 それは求愛の手紙のようでもあり、別れの手紙のようでもあった。
 翌日、その手紙を胸に、私は横浜からソ連へと船出をした。
 9月に帰国するまで40日余り。そのひと夏は長かった。