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1997年 冬 白夜の街

sho14
 1968年7月二七日、横浜港からバロフスク号に乗船。船の中はもうロシアだ。入船と同時にパスポートチェックがあり、すべてがロシア語。私の家は、ロシア料理店を経営していたし、まだ赤ん坊だったハルビンでは私自身、ロシア人と一緒に暮らしていたわけだから、ロシア人の世界にはいうにいわれぬ懐かしさと安堵感を感じる。
 ただソ連という国家の固さと、ロシアというやわらかさの微妙なアンバランスに旅のあちこちでぶつかることになった。
 このころ、ヨーロッパめざして日本脱出する若者の多くが、「時間はかかるけれど、安い!」というので、このソ連経由のルートを利用していたから、船の中はちょっときたない貧乏学生であふれていた。
 横浜からナホトカまでは丸二日、船で洋行するなんて、なんだか夢のようで、はじめはうっとり、でも外の景色は、一日中、どこまでも日本だ。
 三度の食事はすべてメインダイニング、夜にはそこにバンドが入り、食後はダンスパーティーが開かれた。
 何せ若者が、いっぱいなもので、夜が更けるほどにどんちゃん騒ぎとなりバンド演奏の終わった後も、アコ-ディオニストが一人サービスで、いろいろ演奏してくれた。
 そのうちに、船員たちも仕事を離れて集まって来て、ツイストを踊ったり、突如コーラスをしてくれたり、挙句のはてに女装してチュチュをつけて「白鳥の湖」を踊ってくれる船員まで現れた。
 薄暗い灯りの中で、誰もが開放感に満ちて、笑い、踊り、歌い、抱きあった。そのうちにおだやかだった船のゆれが激しくなり、ツイストを踊りながら、全員がホールのはしにころがり、叩きつけられたりして、ウォッカの酔いもまわるまわる!
 私が中学のころから、わがロシアレストラン・スンガリーでも、しょっちゅうこんなふうに大騒ぎになるのを経験していた。ロシア人同士集まると必ず大コーラス、大よっぱらい、大ダンス!
 とにかく眠った記憶のないまま夜があけ、船は日本海へ、そして激しく揺れつづけた。二日目は、朝食も昼食も食事に来る人はまばらで、みんなベッドにはりついて船酔いと戦っているらしい。苦しい二日目の夜が明けて、ナホトカ港へ。楽しかった船の空気とはうって変って殺風景な無言の港に上陸。ガランとした声ばかり響く建物が崖の前に建っている。そのほかには、人家もなく、人のぬくもりもない。
 ナホトカからハバロフスクは十五時間の列車、そこからモスクワまでは、アエロフロートで確か九時間余り、すごい旅だ。
 私達の最初の目的地は、モスクワからさらに夜行列車で十時間余り北のバルト海に面したエストニアのタリンだ。その夜行列車は、二人ずつの個室で、ちょっといいムード。隣の二人組が音楽家だったことからまたもや盛り上がり、コニャックとウォッカで大よっぱらい、大合唱、大ダンス。
「コンサートの終わった夜は、わが家へ来てください」と誘われ、すっかり仲良くなった。
 明け方、夏とはいえ冷気のただようタリン駅へ到着。コンサートの主催者のはなやかなお迎えのなかにひときわ美しい一組の男女が花束を持って現れた!ボリショイバレーで来日した時、スンガリーで一緒に食事をしたバレリーナ、これには感激!彼等は滞在中、ずっと行動をともにしてくれた。
 生まれてはじめての外国人だけを前にしたステージ、さすがにいっさいの言葉が届かない不安はあった。それに、ここではロシア語をあまり使わない方がいいというので、「こんにちは」「ありがとう」「さよなら」をエストニア語で覚えなければならない。せっかく、わずかに用意していたロシア語のコメントも最小限にとどめることになった。でも何とあったかな拍手と、あったかな表情だったことか。教会風のホールのベンチを埋め尽くした人々は、年齢層もさまざま、若い人から老人まで、そしていいと感じた曲には、そのつど、お花を持ってステージに誰かが上がってくる。拍手が止まらないときには、同じ歌をもう一度歌わなくてはいけない!こんなことは始めてのことで嬉しかったな。特に、私のフランス語で歌ったシャンソンには拍手が大きかった。
 感動のうちにコンサートが終わり、夜行列車で一緒になった二人も楽屋へ、でも何やら気まずそうに帰ってしまった。
 この国では、外国人を自分の家へ呼ぶことを禁じているらしいとそのとき知った。酔っ払っているときに言ったのは、そんな事情をよそに本音を出したってことだろうか。
 夜中、ホテルの部屋から見える中世のころの王宮のむこうにまだうすいピンクの空があった。白夜はもう過ぎていたけれど、日没は十二時を過ぎる。
 タリンの次は、リガ、そしてヴィリニュース。バルト三国の旅は、ホントに美しかった。エストニア、ラトヴィア、リトアニア、それぞれ言葉が少しずつ違うので、その度に、あいさつの言葉を覚えなおすのが大変だったけれど、音楽への人々の愛情の大きさが身にしみてくる、そんな毎日だった。町並みも美しい!街をうろつく若者たちも格好いい!
 リガのホテルの部屋には、グランドピアノがあり、どこからかケーキを焼くにおいが満ちてきた。今も淡く甘いそのにおいがなつかしい。
 訪ねてきた若い新聞記者に「あなたは、大学で歴史を学んだそうですね。何で音楽大学じゃないのに歌手になれたのですか」と質問され、この国では、将来の職業をはやく選びそのルートに乗るのが不可欠だと息苦しさへ不満も聞いた。
 それから、約二十年も後になって、ラトビアの作曲家、ライモンズ・パウルスの「百万本のバラ」に出逢うなんて、その時は知る由もない。
 一九八九年ラトヴィアが独立を要求、ソ連の戦車が入った時、広場の群衆の先頭にいた人、それがライモンズ・パウルス。
 今はもう、ソ連から独立、それぞれ小国としての新しい歴史を歩み始めている。このバルト三国とのこの鮮烈な出逢いが、何か私には運命的なもののように思えてならない。