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1998年 冬 凍てついた冬

sho17
 藤本が遠くに行ってしまって、ポツンとひとり寒い季節にむかう頃、私ははじめての「プチ・リサイタル」を草月会館で開く準備をしていた。
 黒色テントの演出家、佐藤信の構成演出で、アバンギャルドな創作と歌の舞台をつくる試み。彼は高校時代の同級生で、一緒に放送部をやっていた仲間だったから、彼の力を借りて、シャンソンの周辺の世界から脱出したいともくろんでいた。
 今思い出してもすごい濃いプログラムだった。一部は何故かトロンボーンのソロで「ワルシャワ労働歌」。幕が開くと、越路吹雪が歌っていた「センチになって」という甘い歌を登紀子が歌うという、解るような解らないような筋書き。収穫は。佐藤信の希望で歌った「ゴンドラの唄」がめっぽう良かったこと。二部で、すぎやまこういち作曲、佐藤信作詞で歌物語の世界を作ったこと、その二部に謎の語り部として南正人を登場させたこともなかなかだった。三部では、トキコのオリジナルシャンソンの世界、ブレヒトの詩に曲をつけた「マリーザンデルス」や「さよなら」「牢獄の炎」など、一九七〇年に入ってからレコーディングした『もうひとりの私』というアルバムのもとになった曲たちが生まれたこと。
 新しい試みで埋め尽くされたこのリサイタル、たった二日の草月会館の切符がなかなか売れず、やっとこぎ着けた本番に来てくれた記者たちも、うつむき加減に何も言わずに帰ってしまうという何となく苦い結果に終わった。
 歌手としての方向はまだ定まらず、アンダーグランド的な芸術運動への魅力を捨てきれないまま、仕事の方は芸能的な歌謡歌手としての色に染まっていく毎日。TV番組はともかく、温泉での歌謡ショーからキャバレーまで、ミニスカートやドレスをカバンに詰め込み歌って歩く、新人歌手としての悪戦苦闘が続いた。
 新宿西口広場に学生フォークが鳴り響き、高石友也、岡林信康、遠藤賢二、高田渡らが活躍しているのを横目で見ながら、私自身は「何とかヒットを出さなきゃ」という事務所の動きに振り回されて何曲もシングルをレコーディングしては失敗していた。
 十一月七日に拘置され、「一ヶ月くらいで出てくるよ」と言っていた藤本はクリスマスが来ても、お正月が来ても釈放されず、寒さが身にこたえる冬を東京拘置所で迎えていた。
 年を越した六十九年一月、東大安田講堂にこもった学生たちが機動隊の攻撃に抗しきれず、逮捕されていった日、私は一人で安田講堂の群衆の中にいた。私のいる世界とは別世界になってしまった人々との距離を見つめ、何もしていない自分に当惑し、それでもその時間を他人事にしたくない一心でそこにいた。
 六十八年の春には、あんなにみずみずしかった学生の群像が追いつめられ、傷つけられ、自らも絶望し、ゆがんでいくこの軌跡。この安田講堂陥落から七十二年の春の内ゲバという悲惨な幕切れまでの歴史を、後世、歴史学者はなんと評するのだろうか。
 学生たちの失敗。若いということの、未熟だったことの、純粋な想いがありすぎたことの結末としての誤謬。確かにそれはある。けれどその一方でやっぱり国家は恐ろしいものだと、それを私は肝に銘じて思う。
 あの晴れ晴れとした時代の輝きをつぶしたのはやっぱり警察の力です。もちろんそれは警官の個人的な暴力という意味ではない。組織力の中にはめられた個人の無力。それが何より恐ろしいと今でも思う。
 三月。東京はめっぽう雪が多かった。拘置所に毛布やセーターを運んでもこの冷たさは耐えられる訳がない!  私はそれなりに多忙な毎日に追われていたけれど、東京が雪でマヒした日、突然私は仕事がなくなって一人家にいることになった。さびしさはそんな時にこそやってくる。身の置き所のないひとりぼっち。
 ギターをぽつねんと弾いているうちにふと曲が生まれた。藤本の葉書にあった「僕の唯一の友達はねずみ君だ」をヒントに「ひとり寝の子守唄」の数行が出来た。
 人を「アッ」と言わせるものでもないし、美しい詩でもない。ただその頃のくすんで縮こまっていた私そのもの。その時の私は「ひとり寝の子守唄」を世に出すことなど考えもしなかった。
 一九六九年の春の思いがけない出逢いが、またひとつ火蓋を切ってくれることになるまでは…。