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1999年 春・夏 終わりとはじまりの二重奏

sho18
 六十九年三月、雪の日に「ひとり寝の子守唄」が生まれた頃、一方では何とかヒット曲をという熱心なマネージャーの企画で「つめたく捨てて」というシングル盤のレコーディングの話が進行していた。
 ヒットメーカーの作曲家に発注し、やっともらった曲。でもどうしても私は好きになれない。「これは絶対にやってはいけないレコーディングだ」という想いがつのってくる。明日はレコーディングという夜。思い切って私はマネージャーに電話した。が、彼の答えは「僕はこの曲に男をかけている。僕の夢について来て欲しい」の一言だった。男の言葉に弱い私は結局折れて「じゃ、徹底的にやるのね。」と逆念押ししてこの曲に付き合うことになった。
 肝心のレコーディングがさてどんな風に進行したのかはどういう訳か記憶から消えている。(私の記憶力はあやしいもので、嫌なことは抹消するという勝手なところがあるようだ。)春が来てリリースが近づいた頃から猛烈なキャンペーンがはじまった。特に大阪を重点にということになり、一週間大阪のラジオ番組と新聞社を駆け巡った。「男をかけてる」マネージャーの意に答えるべく、私も「この歌は今までにない私の可能性を引き出してくれていると思います。」というようなコメントをしながら朝から晩まで偽りの自分をやり遂げるわけだ。生で歌う番組もあって、カラオケでこの歌を歌うこともあったけれど、そんな時ちょっとギターで「ひとり寝の子守唄」を歌ったりもした。「面白い歌だね」という軽いのりで、居合わせる聴衆との空気感は悪くなかった。夜になると放送局関係の奥さんがやっている居酒屋に毎晩くり出し、よく飲んだ。あの頃の大阪は不思議な熱気に燃えていた。大阪から新しい音楽の波を起こそうという気運が、こういう飲み屋の会話にも溢れていて、それだけに今回の私の歌謡曲的な新曲が引っかかってくる。 
 何日か目の夜、その居酒屋の一人(高石友也のマネージャーという人)が酔っ払った私をつかまえて、「今のままじゃ駄目だ。東大生の君にしかできない本当に君らしいものをやらなくちゃ。」と言った。その一言がグサリと来て、ついに私は切れた。「余計なお世話よ。外から見てる人は何とでも言える。中にいる人間の苦しみなんて分からないわよ。」と叫んだ。そこまでは覚えているけれど後は分からない。ハッと我にかえると居合わせた新聞記者に連れられて私はホテルにほうり込まれていた。
 翌日、何故か昨夜の人がホテルへ訪ねてきた。「昨日はどうも」というので「あ、どうも」 と普通に答えると「それだけですか」と変な顔をしている。「どうして?」と聞くと「36発殴られたからなあ、一言あってもいいんじゃないかと思って。」驚いたのは私の方だった。「あら、そうなのご免なさい。」と謝りながらも、泣きながら殴った記憶がうっすらとよみがえってくるような気がした。
 そんなことがきっかけで、高石友也との共演話が進行し、六月はじめ東京と大阪で「高石友也と加藤登紀子」のジョイントライブをやることが決まった。そしてロックバンドのジャックスが私の伴奏をしてくれることになった。ジャックスというばドラムがつのだひろ、ピアノ、サックスが後に事故で亡くなった木田高介、という歴史に残る画期的なグループだ。「日本語のロック」をかかげて不思議なオリジナルロックを産み出し、早川義夫が歌った世界を若者たちは熱狂でむかえていた。
 高石友也は「受験生ブルース」「主婦のブルース」などでビッグヒットを飛ばした絶好調の時、このイベントはこれまでの私の流れとは全く違う世界での私の挑戦という意味合いを持っていた。
 当日聴衆はほとんどが十代という過激さムンムンの中で、私は一度もステージに出したことないオリジナル曲をいくつか歌った。「ララ、行こうじゃないの」「レニングラードの不良少年」「帰りたい帰れない」そして「ひとり寝の子守唄」…。なかなか聴衆の心をつかみきれなくて私は心の中でほとんど泣いていた。ただ私のギターで弾き語りした「ひとり寝の子守唄」だけがその時に受け入れられた唯一の歌だったと思う。
 コンサートの後、私を応援してくれていた何人かの新聞記者の人たちと飲みに行った。その夜は私は泣けて泣けて涙が止まらなかった。聴衆から受け止めた微妙な私への反発とその視線を跳ね返すエネルギーが私になかったことへの悔しさ、自分のいる現在の位置への不安と不満がうずまいた。そんな私を見て何故か記者たちはうれしそうだ。「そんなことより、あの『ひとり寝の子守唄』いいじゃない?シングルにするべきだよ。」と興奮している。
 舟は波に揺さぶられ、突然の出来事にあたふたし、それでも舵をとっているうちに思わぬ港にたどり着くものなのだろうか。  
「ひとり寝の子守唄」は急遽レコーディングが決まり、「つめたく捨てて」のキャンペーンは打ち切られた。
 重苦しい雨の降る夜、スタジオで「ひとり寝の子守唄」の歌入れをした。どういう風に歌おうか考える力もなく何か虚脱した気分で最初のテイクが終わった時、ディレクターがOKサインを出した。
「鳥肌もんだったよ。OKだ!」  
私はちょっと不満で「もう少しやらせて」と言った。「もちろんいいよ。好きなだけどうぞ」と。でも結局最初の歌はこえられなかった。歌としての力じゃない、別の何かがあふれているようだった。その夜、六月一六日はくしくも藤本が東京拘置所から釈放された日。レコーディングを終えてから深夜の新宿で七ヶ月ぶりの再会をした。
 六九年に入ってからの学生運動は急速に変貌をとげており、過激な方向へ向かおうとするものや学生内部の対立に血道をあげるものが錯綜していた。半年以上も不在だった彼には受け入れがたいことがありすぎたようで、その夜は口もきけないほど落ち込んでいた。再会の喜びなど感じるいとまもなく、雨の中へ出ていってしまった彼を私は途方に暮れて見送るだけだった。  何が起こっているのか知るよしもない私は私の列車を走らせるしかなかった。「ひとり寝の子守唄」の発売にむかって新しい私がはじまる…。B面にレコーディングした「枯木の上で」は、私がはじめてシャンソンに自分で訳詞を付けて歌った、その頃のもうひとりの私だった。