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1999年 秋 ゼロの地点から

sho19
 今でも覚えている。あの夜のこと。 私は演奏旅行のまっ最中。七月半ばのことだからあれは「パリ祭」の旅だったと思う。盛大な打ち上げ宴会が旅館の座敷で繰り広げられていた。そこに藤本からの電話があった。
 「今、お前のところにいる。お母さんに鍵を開けてもらって、飯も食わせてもらった。東京にいるのは今夜が最後や。全部終わった。明日西宮の家に帰る。」
 たまたま藤本が東京にいなかった日に大きな内ゲバ事件があったらしい。みんなが活動の場にしていた場所は無残な空き家状態。それを見た瞬間に一切からの離脱を決めたのだった。
 思えば一九六八年七月、上田で書き残した手紙にもすでに、一度全てをゼロに帰すことを考えていた。ちょうど一年のあがき。歴史の上では学生が最も輝かしかったと記されるであろう一年。私と彼にとっては、綱渡りのように追いつめられた一年でもあった。
 旅の帰り道、私は西宮に藤本を訪ねた。無言のままの男とただただ街を歩き神戸の港を歩いた。
 神戸の港には中一の時の懐かしい思い出がある。京都から東京へ引っ越す年の夏、母が「あなたに見せておきたい。もう来られないかもしれないから。」と連れて行った場所だ。母が二十歳の時、父と結婚し、日本を離れて中国へ向かう船に乗った港。私はその時、いつまでもいつまでもずっと遠くをみていた母の横顔を覚えている。
 藤本と埠頭を歩きながらひとつの想いがうずまいた。
 「この港から今どこか遠い所へ行っちゃえたらいいな。」
 二十五歳の私のその時の切実な想いだった。
 東京にいなくなった彼と逢う時間がほとんど無くなってしまったその夏、「長崎県の平戸にこもっている知人を訪ねるから一緒に来ないか」と連絡が来た。一週間の休みを取った私は神戸で藤本と合流し、福岡から佐世保、佐世保から平戸へと丸一日がかりの長い旅をした。
 平戸での何日間かは本当に夢のようだった。隠れキリシタンの住んでいた根獅子の浜の農家に泊めてもらった夜、鶏の鳴き声で目を覚まし、二人で浜に出た。引き潮で広くなった真っ白な浅瀬の上に金色の海が静かな鏡のように広がっていた。その美しさは例えようもなく神秘の世界だった。
 「なんや、恥ずかしいな何もかも。ここからすべてやり直さなあかんと思う。」海で泳ぎ、魚を捕り、それはもう最高の時間だった。宿では朝昼晩、伊勢エビの刺し身とか鯛の背ごしとかあわびとか、海の幸づくし。最後にはお願いしてじゃがいもの煮付けか何か作ってもらったりしたっけ。
 秋になって藤本は「まず地球に土下座してそこからはじめたい」というエコロジスト宣言の文章を発表し、いわゆる学生運動の仲間たちとは距離を置いた独自の活動を再開した。
 私の方も九月十五日「ひとり寝の子守唄」が発表になると一気に忙しくなった。ベストテン番組が各局ではじまっており、私はよく分からないまま番組取りに追われることになった。こうなると衣裳のことも大変。これまでは母が縫ってくれていたけれど、もう手におえない!森英恵さんのブティックが頼みの綱だったけれど、それもまたイメージが違ってきた。思い切ってジーンズとTシャツのスタイルにしてしまって、やっと「私」が生まれたような気がする。
 それでもたったひとり、ギターで歌うスタイルは番組の中ではまだ珍しく、テレビ界はまだまだ演歌の時代だった。
 一方では新しいフォークやロックの誕生があり、私はどっちにいてもはまらない孤立感を拭い去れないでいた。  「歌がヒットしている時は誰でも後光が差しているもんだよ。君はどうしてそんなに落込んでるの?」とよく言われた。
 ステージの上に立っていても何だかよく分からなかった。聴衆に何が伝わり何を受け止めてくれているのか。  九州で「あゆみの箱」のコンサートに参加した時もそうだった。芸能人が大集合した華やかな舞台で、フルバンドとライティングが消えて私一人のシーンになると場が一気に沈むようで、みんなに白けられているようで、恐かった。でもその時、歌い終わってそでに入ると、そこに森繁久弥さんが両手を開げて立っていた。
 「君だったのか。楽屋でいい歌が聞こえてきたんで誰が歌ってるんだって飛んで来たんだよ。君は僕と同じ心で歌うね。今日はもう私は歌わなくてもいいな。」そう言って嬉しそうに抱きしめてくださった。「今夜は君のギターで一晩中歌おう。」と誘われて夕食後ドキドキしながら森繁さんの談笑の場に参加した。
 ハルビンで放送局にいた森繁さんは「君の声はツンドラの冷たさを知っている声だね。」とそう言って、満州の歌やアジア南方の歌やアナウンサーとしてあちこちで知った歌を聴かせて下さった。
 素晴らしい出逢いだった。それも偶然、藤本や仲間たちが大好きだった「知床旅情」の森繁さんだもの。
 それから私は自分のコンサートで弾き語りをするとき、「ひとり寝の子守唄」と一緒に必ず「知床旅情」を歌うようになった。後にレコーディングすることになるとは思いもせず。
私の個人的な愛唱歌として。