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1999年 冬 めぐり逢う歌

sho20
 一九八九年十一月、札幌市民会館で公演していた日、突然、会館に電話があり、ロビー近くの受話器を握り締め「ひとり寝の子守唄」の歌唱賞受賞を聞いた。そのとき何故か体がぶるぶると震えて止まらなかったのを覚えてる。外は雪で、その場所がよほど寒かったからか。それともその知らせがよっぽどうれしかったからか。
 不器用な私はどうもそういう場面にきっぱりとはまれない。十二月三十一日レコード大賞の決定の日も何か場違いな気分が抜けきれず、思うように歌えなかった気がする。
 世界がいくつもに割れている時代。その裂け目はいろんなところに見えた。 例えばテレビよりはラジオの世界が一歩先を走りたがっていて、私のようなメジャーな歌手を歓迎しない雰囲気があった。中学生、高校生の参加番組が圧倒的に多くて二十代半ばの私には、それが大きな壁に見えたりもした。それだけ若者にパワーがあったとも言えるし、ラジオ局のスタッフも何かを変えたいという激しい情熱があった。
 大阪MBSの人気番組「ヤングオーオー」に出演したときも、ヒット曲くらいじゃ許してもらえなくて、出来たばっかりのものか、今ここでつくったものをやれということになった。まだあんまりギターが得意じゃない私を高石友也が助けてくれて、「帰りたい帰れない」をそこで初めて歌った。
 まだ全部の歌詞が出来上がりきらないままのその歌が、かえって新鮮で、ガサガサとしたその場が急にしっとりとしたのを感じた。
 この歌をつくったのにはひとつのきっかけがあった。同じMBSのテレビの方で私がレギュラー出演していた「八木治郎ショー」で六十九年最後の放送のとき、大学封鎖をしている学生たちをスタジオに呼んだことがあった。その時、出演していた男の子の一人が「僕、親に何も言ってないんでやばいんだよね。でもこのテレビ見てくれたらいいな。」と、困るんだか、うれしいんだか分からない、とても可愛い顔したのが心に残った。
 ちょっと甘ったれのような、無防備なナイーブさが、あのころの学生運動の気分だったなぁと思う。
 今度ばかりは「ひとり寝の子守唄」の次のシングルにと早速「帰りたい帰れない」のレコーディングが決まった。同じ路線で連続ヒットを、というわけだった。でも私は「ひとり寝の子守唄」の時と同じように、場がしんとするのがやっぱり気になった。「終わったよ」というちょっと投げやりな、ロックっぽい曲の方をA面にしてほしいとお願いしてみたがあっさり却下。結局その次の「別れの数え歌」まで三部作のような形でこの路線が続いた。
 そして七〇年のうちに、もう一枚シングルを出そうということになったのだ。今度こそはガラリと違うオリジナルを、と頑張ってみたけれど、なかなか出てこない。
 ある日、そんな私の姿を見て、母が言った。
「そんなに無理してつくったって、いい歌出来ないんじゃない?世の中にはいっぱいいい歌があるんだし、そういうの歌うのもいいんじゃない?」
 逃げたわけじゃないけれど、この一言がきっかけで「日本哀歌集」の企画がスタートした。
 カラオケなんて考えられなかったあのころ、酒場ではみんな自分の得意な歌をアカペラで歌っていて、そんな場所では若者よりおっさんたちの方がはるかに情熱的だった。
「北帰行」「さすらい」「蒙古放浪の歌」そして、森繁さんの「知床旅情」「満州里小唄」などそんな酒場で衝撃的にめぐり逢った唄たちを集めてレコーディングしようということになった。あんまり売れそうにもないけどと、しかたなく、その中からシングルカットされたのがA面「西武門哀歌」B面「知床旅情」の 一枚だった。
 TVの歌謡番組でひとりしょんぼりと弾き語りで「西武門哀歌」を歌ったとき、「あーまた場が静まっちゃったなぁ」と落ち込んでいたら、スタジオで働いてたバイト学生の一人が走ってきて「僕の故郷の歌、歌ってくれてありがとう、うれしかったです。」と熱っぽく言ってくれたのだ。沖縄復帰の二年前、学生はパスポートを持って日本に来ている留学生だったと思う。
 今思えば、沖縄の人たちの間に復帰への願いが一番ふくらんでいたのはあの頃なのかもしれない。たくさんの人たちが日本にはるばる留学し、日本を吸収し、未来がひとつであると願っていたのだ。
 結局、年を越したころから「知床旅情」のリクエストが急に出るようになり、「西武門哀歌」じゃなく「知床旅情」をA面にシングルを出しなおすことになって、沖縄との縁もそれきりになってしまったけれど、私にとっての沖縄の歌との出会いは、その後の私にとって大きな伏線だったと思う。
 すべてこうしたことは偶然のことなのだろうか。 誰も方向性を見据えていたわけでもなく、大プロデューサーがいたわけでもない。ただ私がそのようにしか出来なかっただけのことだ。職業歌手としてあたりまえに要求されていることに正確に答えてきたとは言えず、的をはずしてばかりいたような気もするけれど、でもめぐり逢い、心から惚れた歌はどれも私の心からの想いだった。そして決して時代の先端を行ってはいないけど、その時代の気分の何かに触れていたのだと思う。
 流行はいつだって偶然の産物に見えるけれど、本当はそこに生きている人々の感情や意思や願いを集めた大きな川なのだ。
 私の胸の奥の想いを確かに届けてくれるいくつもの歌に出逢えたことを、今さらながら有難かったなと思う。