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2000年 春・夏 地に響く群集に声

sho21
 デビューしてから5年、私は初めてのリサイタルを開いた。1970年3月のことだ。シャンソンからオリジナルへ少しずつ移行し、「ひとり寝の子守唄」で自作自演歌手(今で言うシンガーソングライター)としてのスタイルが確立しつつある大切な時期だった。地方公演はデビュー早々、レパートリーが充分でないときから盛んにこなしてきたし、68年の草月会館のプチ・リサイタルもあったのに、この年まで本格的なリサイタルを開かなかったのは意外な気がする。が、今度こそ事務所としては鳴り物入りの初リサイタル。今はもうなくなってしまったサンケイホールだ。
  演出に砂田実さん、TBSの「歌のベストテン」のプロデューサーで巾の広い音楽センスの持ち主だった。この時のレパートリーにはそのときまだアルバムになっていない私の初期のオリジナル「ゲバラ・アミーオ」「レニングラードの不良少年」「牢獄の炎」など69年ごろから作りためていた少しばかり過激な曲たちが入っている。
 今ふっと思い出すのは新しいオリジナル曲だけで一部を構成したいというので、必死に曲づくりをしていた時のこと。曲だけは少しずつ見えてきても、詞をつくるのは大変。それである人気作詞家に作詞を発注してしまったのだ。数日の間に送られてきた詞を見た時の失望とショック!それで私の詩心が発奮し、結果いくつかの詞が出来上がった。やはり私の場合、私の中からの想いに触れるものでないと歌えない。作詞家の作る歌詞は言葉のゲームのように、言葉上の必然性から生まれる詩であることが多く、そこが私には苦手なところだった。
 その時、生まれたひとつに 「別れの数え唄」がある。その他の砂田さんの提案で、ジャックプレヴェールの詩「朝の食事」に曲をつけることになった時も、事の成り行きから誰か力のある人に発注しようかということになりそうな雲行きを感じた私は、提案されたその晩のうちに曲を書き上げた。まぁなかなか気かん坊だったんだなぁと思う。まわりの大人の発想と力を必死で押し返して頑張ってた、26歳の私。
 自分探しはいろんな軌跡を残した。70年7月には初期オリジナル集「私の中のひとり」が発売され、七一年には3枚のアルバム「ロシアのすたるじー」「日本哀歌集」「美しき五月のパリ」を出している。その他にサンケイホールのライブ盤と3枚組のベスト盤が出ているのだからちょっと驚く。「ひとり寝の子守唄」でひとつのイメージが定着しそうな時に立て続けに自分の世界を広げる私を決して誰も阻まなかった、それがあの時代の持つ底力かもしれない。
 「美しき五月のパリ」のシングル盤をレコーディングした時のことを思い出す。
何故か夜遅くのレコーディングとなりスタジオはうす暗く灯を落としていた、ひどく寒々としたロビーを抜け、レコーディングスタジオのドアを開けた。何故かそこも真っ暗。スケジュールが間違っていたんだろうかと立ちすくんでいたら、その真っ暗な中から突然「ハッピーバースデートゥーユー!」と男たちの大声が聞こえた。その瞬間にケーキのろうそくに火をつけて、拍手で私を迎えてくれた、26歳の私。12月27日よりによってこんな年の瀬にレコーディング、しかも直接の関係者じゃない人まで来てくれて待っていてくれていたなんて!!感激で胸がいっぱいになった。その勢いで、「きょうはこのままスタジオを真っ暗にしたままろうそくの火だけでレコーディングしょうよ。で今ここにいる全員コーラスで参加してよ。」とお願いした。「スタジオに車座になって!!ちょうど地面にうずくまってうめくような低い声で歌って。イントロはそれだけでいこう!」録音ミキサーを残して全員がスタジオに入り群集の気持ちになった。
 68年5月のパリで生まれたこの歌は、もちろん革命歌だ。こんな歌をシングル盤で出そうということも考えてみれば大胆なことだったと思う。もともとはTBSの朝のニュース番組で30分の音楽コーナーを持っていて、その中で「美しき五月のパリ」を日本語訳にして歌ったのが始まりだった。
 それが70年にシャンソンを集めたアルバムをつくるきっかけにもなり、ついにシングル盤も別録音することになったというわけだ。深夜の群集の声は、71年3月に発売されたドーナッツ盤だけに入っている。「さよなら私の20世紀たち」のシリーズでも「TOKIKO CRY」の中でコーラス入りで新しくレコーディングした。
 この歌から今も届いてくるのは、確かにあの頃の時代の熱気。徒党を組み、地面の上をはいずりまわった記憶。そして遠く近代のあけぼのの彼方から吹いてくる自由のにおい。
 71年、まだ日本はゆれていた。
その夏、三里塚で歌った「美しき五月のパリ」を忘れない。成田空港建設に反対した農民行動隊、少年行動隊、婦人行動隊に呼応して全国から学生や若者が、三里塚のロックフェスに集まった。それはアメリカのウッドストックに負けない程の熱気だった。木のやぐらで作ったステージの上に何人もが上がりこみ、叫びっぱなしの大群衆を前にこの歌を歌った。最後はもちろん大合唱。どうやって終わっていいか分からない程だった。歌が音楽以上のものになっていく不安、客席から押し返してくるエネルギーを風のように浴びていた。
 「知床旅情」のヒットが続き、私はもう充分に普通の流行歌手だったはずだけど、そのことがうまくはまらない。群集の中に「みんなのトキコじゃ駄目なんだよ。俺たちだけのトキコになれ!」と叫んだやつがいた。「テレビになんか出るな!」と言うやつもいた。三里塚で歌ったら年末の紅白もないだろうな、と私は覚悟もした。けれどもその全部を飲み込んで71年はあった。
 その年の暮れ、レコード大賞関係のパーティで「傷だらけの人生」を歌っていた鶴田浩二さんと何故か親しくなり、紅白にも出た。
 でも叫び声が絶えずどこかで聞こえる、それが71年だった。