museum ミュージアム

2000年 秋 はじめてのひとり旅

sho22
 大忙しだった1971年の大晦日が明けた1月1日、TBSの局内でレコード大賞関係の新年宴会があった。
「知床旅情」がレコード大賞歌唱賞を受賞したことで参加していた私の肩を突然ポンとたたく人がいた。鶴田浩二さんだ。
「あなたは旅に出るんですってね。日本を捨てるんですか?」
 私は驚いて「別に日本を捨てる訳じゃないけど、ただ違う世界を見たいだけ。」と答えた。
「いいや、多分あなたは日本に絶望してるんだ。僕はあなたには日本を捨ててもらいたくない。日本は今、真実を見失ってるけどね。素晴らしい国だと僕は信じてる。だから是非日本を捨てないで下さい。」
 鶴田さんの言葉の真剣さにふいをつかれ、それでかえって私の中に「日本」というテーマが浮かび上がったかもしれない。ただこの「旅に出たい!!」という気分は私の中にずっとあり続ける「叫び」のようなもの。
1年以上前にも一度、社長だった石井好子さんにお願いしたことがあった。そのときの私の行きたいところは何と
キューバだった。
 石井さんもさすがに驚き「ヒットソングが1曲しかないうちは油断しちゃ駄目。『ひとり寝の子守唄』の他にもう1曲ヒットといえるものが出たら、旅に出てもいいわ。」と答えたのだ。
そして72年のはじめ、ハンブルグの北ドイツ放送に出演する話があり、その往復チケットがあれば世界中どこヘでも行けるというのでこの話を決めたのだった。
 とはいえ、中東戦争があったり、バングラデシュの独立紛争があったり、何かと不穏なこの地域にひとりで行くのは私にとっても大冒険だった。
 父が石井好子さんに「本当に娘にこんなに危険なことをさせていいんですか。」と言いに行ったことがあるらしい。それを笑ってすませた石井さんもさすがだけれど、その時私のひとり旅を応援してくれた人がもう一人いた。森繁久晒夫人、杏子さん。
彼女は南米やアフリカなどいわゆる第三世界を旅する人として有名だった。
 インドやアラブやエジプトの旅行へのアドバイスを受けようとお訪ねしたとき、私の最初の訪問地がインドのカルカッタなのを知って、杏子さんは「あなた死体を見に行きたいの?ただでさえカルカッタはすごいところ、バングラデシュとの戦争が終わったばっかりの今はもっとひどいでしょう。それだけは絶対おやめなさい。」
そう言ってその場で航空会社に電話を入れてカルカッタ行きのチケットをキャンセル、まっすぐイランのテヘラン行きのチケットに変更してしまった。
 私のひとり旅に反対しなかった私の母も、このカルカッタ行きだけは強硬に反対だった。「戦争の後の街がどんなものか、私は知ってる。そんなひどいところへわざわざ行くことないじゃないの。」
 戦争というものをまざまざと体験したこの三人の女の屈強さを目の当たりにして、ますますカルカッタへ行ってみたい私だったけれど、結局これだけは我慢してイランへと旅だった。
 1972年1月9日正午、羽田を発ち、バンコック、ニューデリーを経由し最初の目的地テヘランについたのは深夜2時。軍人がものものしく警備する薄暗い空港こかで聞こえる、それが七一年だったに着いた時の心細さといったらなかった。
 幸い当時、私のマネージャーだった人のお姉さんがイギリス人と結婚してテヘランに住んでいたという偶然のお陰で、その夜二人に迎えられて真夜中の異国の街をゆっくりと車の中から記憶に納めることが出来たのだった。
 あの頃のテヘランはパーラヴイ国王の独裁体制。秘密警察に支配された暗黒の時代と言われるけど、どこかのんびりとした古めかしい美しさがあった。一匹の野良犬の歩く姿にさえ神秘を感じたその夜、イギリス人のご主人は「何でこんなところへ来たんだね。普通の人は出来れば一日も早く立ち去りたいと思うところだよ、ここは。」と私に言った。もちろんそんな言葉にめげる私ではない!!「価値観の違いよ」と言い返し、異国での最初の酒を飲み交わしたのだった。
 一晩眠った翌朝、窓の外から突然聞こえたコーランの詠唱が素晴らしかった!!荷物の中からテープレコーダを取りだしやっとセットした時にはもう終わってしまって地団駄を踏んで残念がっていると「こんなものは毎日何回でも開けるわよ」と奥さんに笑われた。
ところがそれからの1ケ月近く中東を歩き回ったけれど、この時のようなコーランは開けなかった。これこそが旅の不思議だ。心を捕らえた瞬間は二度と戻って来ない。そして同じ瞬間は永遠に見つからないということだ。
 こうしてはじまった私のひとり旅、異文化の中を歩く大旅行。イラン、レバノン、シリア、エジプト、モロッコ、ポルトガル、スペイン・・・。
どこを歩いても日本人の観光客に逢うことはまずなくて、アメリカ人の団体か、二人づれのカップル。ひとり旅は皆無に近かった。
 この旅の記録をまとめた「ろばと砂漠と死者たちの国」を今読むと、28歳の女の子らしい若さと軽やかさが弾んでいて、はじめての旅の興奮がすごく初々しく伝わってくる。たどたどしい英語で、出会う人たちとの会話を楽しみ、勝手な想像力で自由気ままに解釈し、のびのびとうれしそうに旅している。どこにいっても、砂漠、ろば、そして死者たちの遺産。
 まだ古い時代からの風景の美しさがそのままに残っていた中東の旅。長い長い歴史軸の中に身をひたし、あまりにも一過性の価値観に左右される日本の現実への不満を吹き飛ばす素晴らしい旅だったようだ。
「この地球という自然の中に、ただ生き物として生きていく、ひたすらな数千年来の生の形を見たような気がしました。文明が死に絶える砂漠の中で、それでも生きている人たちを忘れることが出来ません。」(「ろばと砂漠と死者たちの国」あとがきより)
 今という時代を地球というスケールで感じていたい。それがこの旅に出た私の想い。そして旅が終わった時、私の中にふんわりと残ったのは、女という性の美しさとたくましさ、だった。
 人もまた自然の中に生きる生物であること、何千年も変わらない生きるための営みが今もまだちゃんと残っていること。
私の心の中に旅の時間が育てたものは「子供を産み育てたい」というひそやかな夢だった。