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2001年 冬 うれしさと淋しさと

sho26
 仕事が過密を極めていた時だけに、私の結婚は大事件でもあった。結婚だけじゃない、出産予定というおまけつきだから、事務所にも迷惑をかけてしまう。私は結婚を決意した日の夜、石井好子さんの家を訪ねた。偶然藤本とはある所で逢ったことがあるとかで、この選択を全面的に賛成して下さった。「歌手だからって、女の幸せをめちゃくちゃにしちゃった人いっぱい見てるからね。赤ちゃん大切にね。仕事の方は何とかするから」と。お腹が大きくなってまで仕事をしない方がいい、という石井さんの判断で仕事は七月いっぱいということになった。結婚の発表は、もう少し時期を見て落ち着いてからというので、仕事は通常通り、結婚のことも赤ちゃんのことも一切を誰にも言わずに続けることになる。私の心の中では、これがきっと歌手としての最後だと感じていた。全くの新しい私になるんだ、と思うと晴れ晴れとした力がわいてくる。つわりと密かに戦いながら演奏旅行も次々とこなしていた。「トキちゃん、何で急に飲まなくなったの?」としきりに言われ、これだけはごまかすのが大変。 そして一九七二年五月二十九日、淡路島への旅の日、私は父と一緒に藤本の実家を訪ねることになった。兵庫県甲子園町、藤本がサインをした結婚届を持って、保証人の欄にお母さんの署名をいただくために・・・。異例な形なので、お兄さんもお母さんも当惑気味で、和気あいあいのお祝い気分というわけにはいかなかった。とにかく届を託し、甲子園の役所に出していただくようにお願いした。神戸の港から淡路島へ渡る船に乗るまで父が送ってくれて、しみじみ言った。「お前もお母ちゃんとよう似とるわ。わざわざ大変な結婚を選んだもんや。お母ちゃんも俺と一緒になったばっかりに、この神戸から大陸へ渡ったんや。お陰で大変な人生を生きんならんかった。そやけど、それでええ。自分で決めたんやからな。」父もおかしな人だ。藤本のことは反対していた時もあった。石井さんのところへ泣き言を言いに行ったこともあったらしい。「あの男と何とか別れさせてくれませんか。」と。なのに、藤本が拘置所に入ったりしている時は、誰より支援者になってくれたりもした。意識では反対。でも心情では賛成だったのかな。偶然ながら、その日淡路島へ女性週間誌の記者が乗り込んできて、「真相を聞きたい」という。誰から情報が渡ったのかは分からないけれど、結婚の正式発表の前に週刊誌に載るのはいやだったので、私はコンサート後、記者には会わず、衣装のままフェリーに乗って神戸にむかった。 真っ暗な海を渡る船の中で、次の日の正式発表を決め、神戸の港から石井さんに電話を入れた。ちょっとした逃亡劇、記者たちは次のフェリーで追いかけていくからと、船の無線を使って私に取材を申し込んで来たけど、そのままは私は逃げ切った。 翌日、結婚記者会見場に、現れたその記者はちょっぴり悔しそうだったけど、ニコニコと参加して、誰よりも先に知っていた情報を、私のかわりにしゃべってくれたりして、のりにのっていたのが、何かおかしかった。偶然とはいえ、結婚届を出した日の発表でよかったなあと思う。淡路に来た記者に感謝したいくらいだ。どの記者も好意的な祝福の記事で一面を埋めてくれ、スキャンダラスな見方をする人もなく、私はとてもしあわせだった。ほんとは歌手卒業宣言をしたい気持ちだったけど、それだけは石井さんに反対された。「これからの長い人生できっとまた歌いたくなるかもしれないじゃない。歌をやめるか、続けるか、それはあなた自身の問題。社会に対して発表する必要はないわよ。人は自分にだけ責任を取ればいいの。」 この言葉は私の心に深く残った。今思えば、この忠告のお陰で、出産後すんなり歌いはじめることが出来たし、マスコミに振り回されずにすんだと思う。行く先々のコンサート会場でも可愛い贈り物を下さる方があったり、お祝いのファンレターもいただいた。一度だけ、ある会場で右翼からのいやがらせの電話があり、警察が会場警備したことがあったと私はあとから知らされた。七月二十五日、日比谷野音で、最後のコンサートを開くことになり、夏にむかって何もかもが過熱していった。けれど、藤本がそこにはいない淋しさは、私の心から離れない。台風の目のようにポッカリとひとりの自分と向き合っている私がいた。どこにいても藤本の気配を探しているような、そんな夏の盛りの空気が、今も忘れられない。「テネシーワルツ」藤本が好きだと言ったことがきっかけでつくった私の詩、何故かあの夏を思い出す。