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2002年 冬 母としての日々

29sho
 新宿のネオンが眼下に見える代々木のマンションで、生まれたばかりの美亜子と二人きりの生活がはじまった。
 枕元には目覚まし時計とノートと鉛筆。
 「何時、何分、泣き出す。五分くらい泣かせてから授乳。右、十分。左五分。……」
 幸い母乳はよく出たけれど、美亜子の食は細く、なかなかしっかり飲んでくれない。「三時間は間をあけなさい」という育児書の指示通りにしようとすると、五分、十分と泣かせて時間待ちをしなきゃいけない。
 人の気配のない夜更け。ただひとり、泣く赤ん坊と向き合っているのは、淋しくもあり、せつなくもあり……。
 けれど、他に眠っている人がいないのは、気楽な面もあり、それはそれで好都合と思うことも出来る。
 朝食にはコーンスープとたっぷりの野菜ジュース。母乳がよく出るように、夜にはビールも飲んだ
 私としたことが電気洗濯機の使い方をはじめて知り、家事いっさいのすべてをせっせとこなす毎日は実に新鮮でもあった。
 同じマンションの別の階に私の母がいたので、食事はいっしょに出来たし、育児の不安も解消できた。
 言葉こそ交わせないけれど、一人の赤ん坊の存在感はすごい。家の中に後光がさしたように光が満ち、一刻一刻が確実に生きている!
 人と会うこともほとんどなくなった年末年始。まさに冬眠中の熊のごとく、ただただ赤ん坊と一緒に呼吸し、眠り、泣き、笑い、あきるともなく顔を見つめた。
 何気なく笑いかけた私に美亜子がふっと笑い返したように思えた瞬間のうれしさ。泣き叫んでいる時の赤鬼のような顔もスケッチした。
 ここにいない人のためにすべての瞬間をのがさず記憶し、伝えたいと思うことで、その集中力は一層加熱するのだった。
 「三ヶ月を過ぎたら日光浴をしましょう」
 育児書の一行を忠実に果たすべく、まだ二月という寒風の中、戸を開けてベランダにバスケットを出して、素っ裸にしているのを見て、母はびっくりしている。
 でも、何と言ったって、育児書に書いてあるのだから、やらなくちゃと私は必死。
 温度計であったかさを確かめたり、風が吹いたらわかるように、バスケットの縁に風車をつけたり、雲に太陽がかくれたら、毛布をかけ、映画の撮影でもあるまいに「太陽が出るのは何分後」と予測を立てたり、とにかく出来得る限りのことをするのだ。そのすべてをもちろん写真にも撮り、藤本に送る。
 授乳風景を自動シャッターでカメラにおさめ、大きな乳房に美亜子がくらいついているリアルな写真も刑務所に送った。
 「看守が興奮してきて『いやあ、困ったよ、こんな写真はほんとは許可が下りないんだがなあ』と言いながら写真を持って来てくれたよ」
と藤本が手紙に書いてきた。
 手紙と思えばこんなこともあった。
 「時々君の字は解読不可能で、看守が僕に相談に来る始末だ。字は心だというから、もう少し丁寧に書いてくれ」
 これには参った。私は充分に心をこめて書いているのに、としゃくにさわる。
 伝えたい心がはやるから、字が踊ってしまう。それをわかってくれないかなあ、と思ったが、一念発起して、筆で書くことにした。
 はじめは小さな字がなかなか書けなくて、ますます字の不揃いな手紙になったけど、さすがに毛筆に不満は言えないらしい。今のように筆ペンのないころだから、この決心は大変ではあったけど、結果的にはよい筆の練習になった。
 はじめて美亜子を母にあずけて、栃木の黒羽刑務所に面会に行った時、どうしても一回の授乳を、哺乳瓶でしなければならなかった。
 面会できるのは、たった十五分だけど、特急の往復の時間と待ち時間で、どうしても六時間はかかる。
 「大丈夫、お腹がすいたら飲むわよ」と母は言ってくれているけど、これがまちがっていた。断固として哺乳瓶を拒否した美亜子は数時間を泣きつづけて私の帰りを待ったのだ。
 私は私で、飲ませなかったおっぱいが張って、電車の中なのにあふれてくる始末。
 こんなに大変なことになるなら、と二回目からは美亜子を連れて行くことにした。
 はじめて藤本が美亜子と対面した日。
 面会室に入る前に授乳をして機嫌のいい美亜子に逢わせたかったのに、やはりそううまくはいかない。少し授乳が足りない中途半端な時に面会時間が来てしまい、面会室で美亜子は泣き出した。
 藤本は藤本で、身を乗り出してでも美亜子の顔を見て欲しいのに、何かぎこちなくかたまっている。
 「いやあ赤ん坊は泣くのが仕事だから」と年配の看守がとりなしてくれる。
 やさしいなあ、と心から感謝した。
 可愛い顔を見せられなくて残念。そう、どうしても面会はいつも何か心にひっかかったまま終わってしまう。それも月に一度のチャンスなのに……。
 刑務所には等級があって、はじめのころは面会は月に一回。級が上がると二回に増えていく。
 はじめは月一回は淋しいなあ、と思ったけれど、この期限がもしなかったら、毎日でも許可されたりしたら、かえって迷ってしまうかもしれない。
 月に一度と決められて、お互いの気持ちも整理がつく。
 ともあれ、私の母としての奮戦の日々は続き、手紙と面会という方法で、必死の報告をし合いながらの遠距離家族。
 「寒井」と呼ばれるその地名のとおり寒々とした刑務所の風景を今も思い出す。