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2003年 秋 私自身のための歌

31sho
 結婚、出産を経て、歌手としての再出発となった一九七三年。
 七月二十五日からの五日間は草月会館でのアコースティックライブとなった。大きな川を渡った新しい私。その新鮮なときめきを今もはっきりと覚えている。ずっとショートヘアだった髪も結婚を決めた時から伸ばして、この時にはすっかりロングヘアになっていた。
 衣裳は一部が中近東の旅でめぐり会ったベドウィン族の刺繍の入ったロングベスト、中は黒のTシャツとジーンズ。二部はモロッコのマラケッシュのバザールで買ったガウンといった、フォルクロアファッションだ。
 幕開きは「この世に生まれて来たら」。告井さんのピアノで火蓋を切る。
 そして二曲目は、私のギターのバンプから元気良く「お前の人生」。全く新しいオリジナル、はじめてのフォルクローレ、それにルネッサンスのちょっぴり猥雑なユーモアソング。それに少しばかりバルバラのシャンソンを加えたそのプログラムは、今考えてもなかなか格好いい。そっくり全曲、二枚組のライブレコードとして記録されているけれど、完全復刻ライブを今してもいいと思うくらい中味が面白い。
 そういえば「ゴリラの夫婦」というのもあったな。子育て中とあって、曲作りもふうふう汗をかきながらの悪戦苦闘だったけれど、ひとつひとつ歌が生まれていく度に違うページが開かれて行くような歓びがあった。
 結婚前の数年間、「ひとり寝の子守唄」をきっかけにシンガーソングライターとしての歩みをはじめてはいたけれど、曲作りは重荷の仕事だった。それを考えると、コンサートを思い立った三月末から七月までの数ヶ月で、こんなにもたくさんの新しい世界に向き合えたというのはすごいことだなと思う。
 一年間歌っていなかったというエネルギーの蓄積と、何より新しい生命と向き合う生活のリズムだ。自由に外の世界へ出てゆくわけにいかないけど、小さな赤ん坊をかかえていろんな旅もした。
 五月には九州の伊万里へやきものをたどる旅。大河内山の小笠原家に泊まり込み、白い皿に呉須で絵を描いたり、近くの山で古伊万里の破片のスケッチをしたり……。
 おむつの洗濯、美亜子の日光浴をさせたりしながらの楽しい旅だった。
 古伊万里のころの陶工たちは、多分朝鮮半島から渡来した人たちだろう。柳やサギや葡萄や唐草といったシンボリックな図柄を、その時そのスケッチから随分練習した。染め付けの素朴なタッチと触れ合っていると、遠い昔の人と対話しているような気持ちにもなった。何十年も柳の絵だけを描いていた職人もいたそうで、彼らにとってその仕事が楽しいものだったかどうかは分からないけれど、古伊万里の絵からは、何とも言えない、ほのぼのとしたうれしさが伝わってくる。
 山道を歩いても、海を見ても、美亜子という小さな存在がそこにあると思うだけで、心のときめき方が違う。不思議なものだ。
 この時期に、草月会館での何から何まで新しいライブをやり遂げたうれしさは、ほんとうに大きかった。けれど、そうかといって、人々がそれに完全に満足だったかどうかは分からない。そこがむずかしいところだ。ちょっぴりあっけにとられているようなところもなかった訳じゃない。
 私自身が前進することの大切さと、そこに来る聴衆の要求するものとのすれすれのバトルは、永遠についてまわるもの。このコンサートが大いなる冒険だったことは確かだろう。それでも、私にとって歌うということの意味が、この時知らぬ間に大きく変わっていたのだと思う。
 「私自身のための歌」
 それはシャンソンをめざしてデビューした時から、私の心の底にあった揺るがない思いだけれど、歌手という仕事を果たすなかで、いろんな迷いの嵐をくぐった。ヒットソングを出さなきゃというプレッシャーも無視できなかった。
 でもやっと、私は自分と向き合い、自分が生きているという生活の中から歌を産み出していくことをドーンと中心に据えることが出来たのだ。まわりが認めてくれるかどうかより、私のために歌っているよろこびの方が大きくなったということだ。
 秋にむかい、今度は京都でコンサートを開くことになった。
 「京都」ということになると、どうしても頭を駆けめぐるたくさんの思いがある。藤本との出逢い、同志社の友だちと飲み明かした思い出、一九六八年、ロックアウト中の京大のキャンパスで歌った時のこと、同志社の学生会館で、突然の自発的ライブをやってしまった日のこと。河原町三条の「リラ亭」で朝まで過ごした夢のような幾夜。六九年、内ゲバの嵐を泣きながら見ていた夜もあった。
 夏の陽ざしの中でつくり出した東京でのプログラムと同じというわけにはいかない、というむずむずとした思いが、次から次へと去来した。
 そのころ毎日といっていいほど聞いていたマリーラフォレ、それにファドのアマリア・ロドリゲス。ふっとその中から選んだ一曲が「難船」だった。
 「私は小さな舟に夢をのせた
  海にうかぶ小舟が小さくふるえ
  そしてその後で海に小舟を沈めた
  この両手で海の底に小さな夢を沈めた」
 燃えさかるひとつの夢があった。けれどその夢との決別を自分の手で、自分の意志でしなければいけない、孤独な哀しさをこの歌に託し、この歌の訳をつくった。
 そしてこの想いをもうひとつ新しいオリジナル曲に託した。
 「いく時代かがありまして」
 中原中也の「サーカス」という詩の冒頭の一節をもとに、私の痛恨のメッセージを込めた一曲。
 この歌が出来た日のことを覚えている。
 メロディーをつくり、詩を書きながら泣いた。思い出の情景があまりにくっきりとしていたからだ。哀しい熱に取り憑かれたように、詩はいっぺんに仕上がり、イントロさえも聞こえてきた。今も私の心の底にありつづけている大切な歌 ・。