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2004年 春・夏 はじめての沖縄

33sho
 一九七四年、「灰色の瞳」のレコーディングをした年の春、私ははじめての沖縄ツアーをした。
メンバーはパーカッションの瀬上養之助さん、ベースの鈴木淳さん、告井さんとフルートの西沢さん、そしてギターの福山さんというフォルクローレのフルメンバー。
一九七二年の日本復帰から一年余りたって、沖縄はインフレでガタガタの状態。日本への不満が爆発しそうな時だっただけに、ヤマトンチューにとっては針のむしろ。
けれど泊まった民宿で、最後は奥さんに美亜子のお粥を作ってもらったり、お守りをしてもらったり、同行した私の母ともすっかり親しい関係になった。
コンサートは那覇、具志川、名護。あのころの名護はまだほんとの田舎。沖縄風の農家の庭先には豚とにわとりが飼われていた。美亜子を連れて会館のまわりを歩いて来た母が「楽しかったわ」と言っていたのを思い出す。
南部戦跡、ひめゆりの塔、そしてあのころはまだ情緒いっぱいの「西武門(にしんじょう)」の繁華街「波の上」あたりも歩いた。
はじめての沖縄だけに何もかもが目に染みた。南の海に突き出した草原で風を浴び、はじめての沖縄料理に夢中になった。
古典舞踊の稽古場にも行き、能楽のような優雅な舞いの世界、あでやかな美しい琉装を見た。豪華なのにどこか野の中で舞われているような戸外の空気が感じられるのは何故だろう。
ちょうど旅から帰ったばかりの、南米、ボリビアで見たインディオの踊りと重なって見えたりもする。
衣裳もリズムも違うのに、手をつなぎ輪になって踊る動きに野遊びの楽しさがあふれているせいだろう。
歌者の大御所、嘉手刈林昌さんや「芭蕉布」の作曲者、普久原恒勇さんが出席するお座敷にも招かれた。琉球放送の上原直彦さんがセットしてくださったようだ。
嘉手刈さんは座敷の奥で黙々と泡盛をすすり、一言も声がない。
「歌ってみなさい」とうながされて、私は「西武門哀歌」や「ひとり寝の子守歌」「いく時代かがありまして」など、泣きたいような気持ちで歌った。
復帰後の沖縄にまだ多く歌手が訪れているわけでもなく、私はとても大切に迎えられたのだと思う。けれど、正直、心根を正されているようでもあり、歌の真実を試されているようでもあり、とにかく必死だった。
言葉を発しない嘉手刈さんの美しい横顔を見ながら、いつの間にか彼だけをターゲットに歌っていたようだ。
それから、二十年近くたって、「嘉手刈さんが東京に俺の女がいるとおっしゃって、それがどうも登紀子さんらしいです。」と言われた時には本当にうれしかった。
沖縄の人はとても厳しいがとてもあったかい。表向きは意地悪だが、中味はやさしい。
あの日の幾分重い出逢いから、ずっと沖縄は私にとって禊ぎの場であるようだ。コンサートの聴衆にも独特の構えがある。けれどふとしたことから、嘘のようにそのバリアが消え、一気に燃え上がるのりの素晴らしさには驚く。手拍子よりも体が動き顔が輝く。ラテンのリズムに指笛がのり、思わぬ世界に突入する。
私のはじめての沖縄公演も、フォルクローレの熱気に包まれた。
色のある世界。あのころの私は着る服にも色が欲しかった。南米で買ってきた赤い皮のロングベスト、刺繍の入ったブラウス、そして結婚と同時に伸ばしはじめたロングヘアー。はじけるエネルギーが満ちていた。
けれど、はじめての子供と一緒の旅はもちろん大変。名護から那覇に帰る途中、泣きやまない美亜子に哺乳瓶でミルクを飲ませようとコザのバーでお湯をもらった不思議な思い出。東京に発つ日に熱を出した美亜子を病院に連れて行った時、待合室の外の廊下にまで子供があふれている沖縄の医療事情を目の当たりにしたこと。
何もかも遠い日だ。
今は沖縄もすっかりなじみの街となりヒリヒリする違和感を感じることもなくなった。
あの時のような経験が今は得がたい宝のような気がする。
二〇〇三年五月、出逢いからの三十年余りを総集するアルバム『沖縄情歌』を世に出すことが出来、沖縄の若いミュージシャンとの交流も深まっている。
沖縄で暮らしている三女の美穂には二人目の娘が生まれた。沖縄が私にとっての新しいホームグランドになりはじめたのだ。