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2004年 秋 高くも遠くも飛べない

34sho
 結婚、出産の休業をしてからちょうど一年で歌手復帰、それから更に一年。二度目の夏をむかえていた一九七四年。
沖縄公演の後も私はフォルクローレ熱に燃えていた。「灰色の瞳」でデュエットした長谷川きよしさんとのジョイントコンサートの盛り上がりを受けて、ついに日比谷野音でのジョイントが実現することになる。
日比谷野音は一九七二年の「さよならコンサート」が八〇〇〇人の聴衆を集めた興奮がまだ生々しい。今回も確実に七〇〇〇人近くの観客が見込まれていた。
「灰色の瞳」「黒の舟唄」がAB面となったシングルが驚くほど好調に売れたことと、きよしさんとのデュエットでラテン系のノリの良さと音の幅がいくつもの魅力的なレパートリーを運んで来てくれたことが、この勢いの理由。計算通りにはまるというのは私の経歴の中ではむしろ珍しいケース。
出産・育児の中での音楽活動だけに、波に乗ったとはいえ、私自身の体制は順風満帆とは言えない。
二人のジョイントはあくまで二人の音楽性をかけ算に出来ることを目指していたので、新しい曲へのトライが多く、舞台裏はかなりあわただしいものだった。
長谷川きよしのギターで二人だけの幕開きで歌った「サンバ・プレリュード」から、後半のフォルクローレ「コンドルは飛んで行く」「アイアイアモール」「みんな一緒に」「花祭り」など切り札となる歌がいっぱいあったけれど、それ以上にこの野音で創唱した私のソロの中で強烈なレパートリーがふたつあった。
ひとつはブラジルの旅行の中で出会った黒人系の宗教音楽を主題にした「ウンバンダ」。シンプルな繰り返しが段々盛り上がっていくある種のゴスペル、ミュージシャンの参加の格好良さ、聴衆のノリが決め手だけに結果に気をもんだ。
もうひとつはポルトガルのファドの最も有名な歌「暗いはしけ」の翻訳。
それまでの「ふたつの顔」で私の訳で歌っていたソロ曲「難船」ときよしさんのレパートリーのデュエット「ディアナへ行こう」が好評だったので、そこにもうひとつ強力な切り札というねらいだった。
コンサートぎりぎりに訳詞をつくり、はまり具合を気にしながら歌ったことを今もありありと思い出す。
その時は「やっと間に合った!!」っていうその場しのぎの一曲だったけれど、今頃になって貴重な財産となったことに気づく。何でも思いつく限り欲張りにやってみるものだ。
この長谷川きよしさんとのジョイントコンサートは、その後、数年尾を引いて一九七八年、改めて全国ツアーを組むことになり、ジョイントアルバムの録音盤もつくり、この夏のいろんなトライがライブ盤として結実することになる。
結婚前の音楽活動とはガラッと違ったラテン系の躍動の世界が結婚後の私をぐんぐん引っ張ってくれたは素晴らしいことだったと思う。
けれど、そんな時にも「ひとり寝の子守唄」「知床旅情」で歌謡界の真っ直中にいたことと比較して「寄り道」と批判する人もあった。
「せっかくのお登紀節をみんな待ってるぜ。けど、そこまではまったならラテンのエキスパートにまでなってみろよ。」そう言われた時、私はちょっと引っかかるものがあった。
どんな音楽に魅せられようと、私は私の歌を求めているのであって、「○○界の女王」は私には似つかわしくない話だった。私は結局私らしくどんな国の音楽であろうと、オリジナルであろうと、かまわず歌って行くことになるのだが、外国のカバーと自作曲が交互にヒットするというようなタイプはやっぱりめずらしいケースに違いない。
ちょうどそんな時、倉本聡さんのテレビドラマ「六羽のカモメ」のテーマ曲の作曲依頼が舞い込んだ。
近頃ならテレビドラマの主題歌と言えば、レコード会社のバリバリがしのぎを削って取り合いするようなチャンスだろう。けれど、その頃の私には、そういう感覚は全くなくて、極々個人的な興味で曲作りをすることになった。
「子育て中」というので打ち合わせは自宅で電話だけ。会ったこともない倉本聡さんと電話で話した時のことが何故か今もありありと思い出せる。
「カモメってやつは情けない鳥でね、高く飛んだり、遠くへ飛んだりしないんです。結局港のゴミゴミした辺りの残飯なんかをあさってね、一生終えてしまう奴ばっかり。そんなさえない鳥への愛しさがあのファドみたいな懐かしい感じで出せればいいと思います。」
倉本さんのヒントは私がファドを歌っていることにあったらしい。
電話から数日のうちに「かもめ挽歌」の歌い出しが浮かんだ。
保育園からの帰り道、突然浮かんで、歌いながら帰ってきて、あわてて姉の家に寄り、子どもを見てもらっているうちに姉の家の子ども部屋の二段ベッドに座り込んで曲を仕上げた。そんなディテールまでありありと思い出す。
「高く飛んだり、遠くへ飛んだり出来ない情けない奴」というセリフが私の心をつかんでいたのだ。
曲のヒットとかそんなこととは無関係に、私の日常を埋めている「高くも遠くも飛べない」拘束感が痛いほどいとおしく、切なくもあったから。
この歌はどのアルバムにも入らず宙に浮いてしまったせいか、当時それなりにヒットしたはずなのに、私のキャリアの中では影が薄い。その後の「私の愛した二〇世紀たち」シリーズの中で十枚目の「春待草」の中のセレクションに新しくレコーディングをした。それなのに、またあんまりステージでは歌っていない。やっぱりそんな運命の歌なのだろうか。