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2004年 冬 黒羽からの帰還

35sho
 七四年九月六日、夫、藤本敏夫が二年余りの拘留生活を終えて出所した。
前日に京都でコンサートのあった私は、終了後静岡止まりの新幹線に飛び乗り、そこからタクシーで東京に帰り、待機してくれていた友だちの車で那須野が原の黒羽刑務所へと向かった。
出所のニュースをキャッチしているマスコミを避けるための配慮から、藤本の出所は午前六時半という異例の早朝に決められていた。
夜中じゅう車を走らせた私だったけれど、眠ることはなかった。
那須野に近づくにつれて明けて行く空の美しさを今も覚えている。
深々と山々を包む闇が蒼さに深まり、遠い空からかすかな赤い光が夜明けを運んでくる。
静まりかえった田んぼには稲たちが実りの時を待っている。
この風景を春夏秋冬と見つめながら面会に通ったんだなあと、しみじみと振り返り、今はもうすっかりなじみになった人たちの顔を思い浮かべた。
黒磯駅前で電車待ちをしたそば屋で、いつも美亜子を寝かしつけてくれたおばさん。刑務所から駅までの道で何度も送ってくれたタクシーの運転手さん……。
胸躍るこの出所を彼らに伝えられないのが何だか残念。お礼の一言も言えないことも心残りだった。
刑務所の正面玄関には、何人かのマスコミの人の姿が見えたけれど、私たちはその日裏口から入るように指示されていた。
面会室の他には知らない私は、はじめて刑務所内の建物に入る。
シーンとした待合室でしばらく待っていると、何のまえぶれもなく、フラッと藤本が何人かの職員に連れられて来た。
彼は私の方は見ずに、深々と職員におじぎをし、緊張した面持ちで歩いて来た。
映画の場面ならここで駆け寄り抱き合いもするのだろうに、何故かそれも出来ずに、私もひたすら職員の人におじぎをし、彼を迎えた。
車に乗る時にそっと触れた彼の体は、びっくりするほど細く、風が吹けばよろっと倒れそうなほど頼りなく見えた。
東京に帰る途中、川の土手の草原で持ってきたお弁当を食べ、そこでやっとのことで私たちは一言二言しゃべり出した気がする。
東京に近づくにつれて、車の渋滞にぶつかり、排気ガスに気分の悪くなった彼は「お前らはひどいとこに住んどったんやなあ」と言い、「刑務所はよかったぞお」と自慢がはじまった。
その夜、待ちかまえていた何人かの友だちとの酒盛りの時も、もっぱら刑務所自慢。ビールをぐいと飲めば
「いやあビールはこんなにもまずいもんやったか」と声をあげ、にも関わらず八本近くも一人で空けた。いく夜もいく夜も夢に見つづけた新婚生活がこうしてはじまったのだ。
一歳九ヶ月の美亜子を間に「川の字」になって、私は精一杯妻として「だんな様」を迎えた。
刑務所の中がよほど清潔だったのか、家の中のちょっとした汚れが気になる彼、「みそ汁はワカメがちょっと浮いてるくらいがいい」「ご飯は麦飯にしろ」などなど、刑務所帰りの要求にとりあえず応えることにして右往左往した。
この秋は夫の出所の予測があったので、コンサートツアーを一切休みにしていたけれど、そのかわり中南米を旅した時のことを書いた「死人たちの祈り」の原稿を書いていた。
子育てのサイクルと夫の生活時間とのやりくりで、原稿を書く時間がなかなかなくて、夜中にこっそり起き出して書いたりしていたのを思い出す。
夫は夫で過去を一切断ち切っていた男としてのキャリアを三〇歳にしてスタートさせるために、必死で道を探っている。どうしてもその苛立ちがかくせない。
こうしてみると、刑務所生活の方が夢見る場所だったのかもしれない。
その翌年の正月、家族そろって明治神宮に初詣に行った。その時の写真を見ると、帽子をかぶりコートを着て、美亜子を抱っこした彼の表情は晴れない冬空のようだ。一刻も早く次の赤ちゃんを、と願っていた私も、妊娠して三ヶ月ほどで流産してしまう。
七四年末に発売になった童謡のアルバム「赤い靴」がそのころの日々から生まれている。「九月の便り」はシングル盤「かもめ挽歌」のB面としてレコーディングをした曲。藤本が刑務所の中から送ってきた詩の一節がもとになって生まれた。刑務所暮らしの風景が浮かぶ思い出深い歌だ。