2005年 春 とまどいの新婚生活

藤本の出所ではじまったコブ付き新婚生活。
まだ二人とも三十歳、新しい人生を模索するには充分に若い。けれど、三年余りの空白の間に、下獄前の人間関係も、積み上げた仕事の可能性もすべてがゼロに帰していた藤本にとっては、とても多難な人生のスタートだ。応援したい私も、はじめての子育てと家事のやりくりであたふたとするばかり。何かと歯車のかみ合わない中で、藤本の気難しさも時折爆発する。
「お前は家中の電気をつけるな、もっとちゃんと消せよ」
「玄関の前でパンツを脱ぎ捨てるな」
たまたま風呂場のドアの前に服を脱ぎ、子どもを抱いての七転八倒の果ての現場に彼が帰ってきたのだ。でもそんな時、パンツをまたいで私を助けてくれたっていいのに、と思うけれど、そういう軽挙妄動は苦手な人だ。
一九七五年の正月が明け、楽しみにしていた二番目の赤ちゃんが流産してしまい、少し改まった気持ちでこれからのことを話し合ったある日、彼がこう言った。
「君は家のことも仕事のことも両方やろうと無理しているみたいだけど、軸足をどっちかに決めろ。」
「どちらかに」と言われて、即座に私のランプは「仕事」の方についてしまった。
そう言われなければ、私はきっと迷い迷い両方を抱えていくつもりだったろうに、彼のひと言がきっかけで俄然やる気を起こし、自分で独立した事務所を持ち、仕事の舵取りを自分でやりながら、はっきりと歌手としての再スタートをすることを決心する。
西宮から藤本のお母さんに上京していただき、同居出来る家に引っ越し、今までの古巣のマンションを事務所にし、「揆楽舎」という事務所を立ち上げる。たった一日で引っ越す家を見つけ、マネージャーとなる人に話を取り付けた。その決定的な一日のことを今もはっきりと覚えている。
さて、これで苦手な家事からは解放されて、家の中を「藤本家」としてお義母さんに仕切ってもらい、私は歌手加藤登紀子でいくのだ、と決めた。
その数日後、何と私は妊娠に気づくのだ。
みんなは「エーッ!!」と驚いたが、私はもちろん産むことに全く迷いがなかった。
「軸足を仕事に」と決心したときも答えははっきりしていたが、「子どもは産みたい」というこの気持ちも変えようがない。結局、一年は準備期間と考えてゆっくりやろうよ、とまわりを説得。予定どおり一九七五年、五月「揆楽舎」発足。八月の日比谷野音で盛大に出産前祝いコンサートをしてから産休に入った。
家の方はお義母さんがやってくれていたし、長女の美亜子は昼間は保育園に行っていたので、朝、家から事務所に出勤し、三人で近くの店で昼ご飯を食べ雑談し、夕方、保育園へ寄って帰るという静かな日常がはじまった。
秋も深まり、二回目の出産も近づいたある日、三人で昼食を取っていた店のテレビに「中島みゆき」が登場した。私は彼女の歌う『時代』に釘付けになり、彼女の表情に大いに共感した。多少機嫌の悪そうな、まるで挑みかかるような目で歌う姿に、これまでに存在しなかった新しいタイプの女を感じたのだ。
思い立ってすぐ行動に移す私は、早速、ヤマハに「この人と会いたいのですが」と電話をかけた。
恐らく一ヶ月後くらいだろうか、みゆきさんはギターを持ってわが事務所に来てくれた。無口なみゆき嬢は暗くなった部屋の中で『夜風の中から』を突然歌ってくれた。その息づかいを今も忘れない。
帰り際に「さわっていいですか」と私の大きなお腹をしずかに、うれしそうに、そっとさわった。そのやわらかさもまたみゆきさんだった。
この出逢いはずっと後になって開花することになるのだが、この開店休業の時間がいろんな意味で私の中に深い時間を産んでいてくれたのかもしれないと思う。
十二月十四日、次女八恵を出産し、また再び生まれたばかりの生命とのときめきの日々がやって来た。
そして、八恵の誕生の直後から、私の歌づくりは始まった。
一九七六年、夏のレコーディングで生まれたアルバム「回帰線」。その一曲目はギターの弾き語りで録音した「電話」。
三人の娘が大きくなってしまった今は、風吹く中で走りまわることも、陽ざしの中で笑うことも、街の雑踏の中で取り残されたように戸惑うこともない。そんな時間のみずみずしさが、この歌から今も歌う度にこぼれ落ちる。
大切な歌だ。
まだ二人とも三十歳、新しい人生を模索するには充分に若い。けれど、三年余りの空白の間に、下獄前の人間関係も、積み上げた仕事の可能性もすべてがゼロに帰していた藤本にとっては、とても多難な人生のスタートだ。応援したい私も、はじめての子育てと家事のやりくりであたふたとするばかり。何かと歯車のかみ合わない中で、藤本の気難しさも時折爆発する。
「お前は家中の電気をつけるな、もっとちゃんと消せよ」
「玄関の前でパンツを脱ぎ捨てるな」
たまたま風呂場のドアの前に服を脱ぎ、子どもを抱いての七転八倒の果ての現場に彼が帰ってきたのだ。でもそんな時、パンツをまたいで私を助けてくれたっていいのに、と思うけれど、そういう軽挙妄動は苦手な人だ。
一九七五年の正月が明け、楽しみにしていた二番目の赤ちゃんが流産してしまい、少し改まった気持ちでこれからのことを話し合ったある日、彼がこう言った。
「君は家のことも仕事のことも両方やろうと無理しているみたいだけど、軸足をどっちかに決めろ。」
「どちらかに」と言われて、即座に私のランプは「仕事」の方についてしまった。
そう言われなければ、私はきっと迷い迷い両方を抱えていくつもりだったろうに、彼のひと言がきっかけで俄然やる気を起こし、自分で独立した事務所を持ち、仕事の舵取りを自分でやりながら、はっきりと歌手としての再スタートをすることを決心する。
西宮から藤本のお母さんに上京していただき、同居出来る家に引っ越し、今までの古巣のマンションを事務所にし、「揆楽舎」という事務所を立ち上げる。たった一日で引っ越す家を見つけ、マネージャーとなる人に話を取り付けた。その決定的な一日のことを今もはっきりと覚えている。
さて、これで苦手な家事からは解放されて、家の中を「藤本家」としてお義母さんに仕切ってもらい、私は歌手加藤登紀子でいくのだ、と決めた。
その数日後、何と私は妊娠に気づくのだ。
みんなは「エーッ!!」と驚いたが、私はもちろん産むことに全く迷いがなかった。
「軸足を仕事に」と決心したときも答えははっきりしていたが、「子どもは産みたい」というこの気持ちも変えようがない。結局、一年は準備期間と考えてゆっくりやろうよ、とまわりを説得。予定どおり一九七五年、五月「揆楽舎」発足。八月の日比谷野音で盛大に出産前祝いコンサートをしてから産休に入った。
家の方はお義母さんがやってくれていたし、長女の美亜子は昼間は保育園に行っていたので、朝、家から事務所に出勤し、三人で近くの店で昼ご飯を食べ雑談し、夕方、保育園へ寄って帰るという静かな日常がはじまった。
秋も深まり、二回目の出産も近づいたある日、三人で昼食を取っていた店のテレビに「中島みゆき」が登場した。私は彼女の歌う『時代』に釘付けになり、彼女の表情に大いに共感した。多少機嫌の悪そうな、まるで挑みかかるような目で歌う姿に、これまでに存在しなかった新しいタイプの女を感じたのだ。
思い立ってすぐ行動に移す私は、早速、ヤマハに「この人と会いたいのですが」と電話をかけた。
恐らく一ヶ月後くらいだろうか、みゆきさんはギターを持ってわが事務所に来てくれた。無口なみゆき嬢は暗くなった部屋の中で『夜風の中から』を突然歌ってくれた。その息づかいを今も忘れない。
帰り際に「さわっていいですか」と私の大きなお腹をしずかに、うれしそうに、そっとさわった。そのやわらかさもまたみゆきさんだった。
この出逢いはずっと後になって開花することになるのだが、この開店休業の時間がいろんな意味で私の中に深い時間を産んでいてくれたのかもしれないと思う。
十二月十四日、次女八恵を出産し、また再び生まれたばかりの生命とのときめきの日々がやって来た。
そして、八恵の誕生の直後から、私の歌づくりは始まった。
一九七六年、夏のレコーディングで生まれたアルバム「回帰線」。その一曲目はギターの弾き語りで録音した「電話」。
三人の娘が大きくなってしまった今は、風吹く中で走りまわることも、陽ざしの中で笑うことも、街の雑踏の中で取り残されたように戸惑うこともない。そんな時間のみずみずしさが、この歌から今も歌う度にこぼれ落ちる。
大切な歌だ。