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2005年 夏・秋 テーマは「回帰」と「脱出」

37sho

 一九七六年、八恵誕生の翌年は、藤本にとっても大きく動き出す年になった。
三月には「大地を守る会」を発足。当時、農民の中に、農薬被害が続出。農薬散布が農民の身体を蝕んでいることがやっと注目されはじめた。
そんな時、ふりかけられた農薬をそのまま飲むお茶は、最も危険な農薬公害だというので、夫が一大決心のもと、お茶を手はじめとした、有機農家の発掘に乗り出したのだ。
一九六一年に農業基本法が変わり、農業の大型機械化と農薬化学肥料への転換が大きな補助金付きで進められていて、地域の中に有機農家が含まれていると補助金が出ないなどの政策で、有機農業は事実上首を絞められている状態。
「大地を守る会」を発足した後も、生産者の確保が何よりの難題だったようだ。
藤本がどんなフットワークでこの運動を広げていったのか詳しいことは分からないが、七四年の出所からの模索がやっと実りはじめ、方向が決まって来たことで、活気に満ちた毎日が続いていた。
私は私で、五月、出産後初のコンサートを西武劇場で開いた。
八恵の誕生直後から曲作りをはじめていたので、コンサート前半はほとんどが新曲でうめられていた。美亜子の時と同様、長い出産休暇の後という気負いもあり、新しい私を歌いたいという気持ちでいっぱいだった。
子どもが二人になった日常の中での曲づくり、私をかき立てたテーマは大きく二つだった。
「回帰」と「脱出」。
子供に占領された自分自身を取り戻したいという必死の願い。そして、もっと広いところへ出て行きたいという旅への希求。
九月のはじめ、告井延隆をプロデューサーにすえ、いよいよこの新しい曲たちのレコーディングに入った。
レコーディングの終盤で、何かひとつ足りないなあと地団駄を踏むうちに、曲が出来た。詞のつかないまま、メンバーがそろったスタジオ録音の最後の日に、
「とりあえず音だけ録っとこうよ」と告井さんが言い出し、タイトルも歌詞の内容もわからないまま、カラオケだけを録音した。私としては何としても一日か二日で詞をつけなきゃならない、背水の陣だ。
そんな折りも折り、私は藤本といっしょに宮古島へ行くという計画があり、レコーディングを放っぽり出して旅に出ることになった。三歳の美亜子を連れ、ゼロ歳の八恵を東京の義母に託し、三人ではじめての宮古島へと向かう。
何が目的かというと、宮古島に開発したまま放置されている農地を見に行くというのだ。「大地を守る会」もまだ消費者への直販会社を立ち上げる直前だったので、藤本自身の中に、農民として身を立てたいという気持ちがあったのだろう。渇いた赤土を畑に拓き、スプリンクラーで水を引いた手つかずの農地を、炎天下見てまわった。
こんなところに入植することになるのかと、私は内心困惑していた。
季節も暑い盛り、その夜の蒸し暑さにも参った。クーラーがブンブンうなっているのにじとっとして寝付けない。夫と美亜子が眠っている寝息を聞きながらついに朝になり、私はそっと部屋を出た。
ホテルの外は海。部屋の中の蒸し暑さが嘘のように気持ちのよい海風が吹いていた。真っ白な砂浜は素足にひんやりとしみる。珊瑚礁の粒子で出来た浜は、これまでに味わったことのない不思議な清涼感で体をつつんだ。浜にひとり座っていると、いつか私の頭の中には詞をつけないままレコーディングしたあの曲が鳴っていた。そしてはじめの一行にズボッと言葉がはまる。
 「土に生まれ 土に帰る
 人のいのちの ほんの短い この世の旅路」
出だしが決まると嘘のようにすらすらとその後の歌詞が出来た。
この詞は海が私に贈ってくれたのだろうか。旅に出る前に、曲だけ出来ていたという偶然さえもが暗示だったように思えてくる。
「土に帰る」という大きな曲がこうしてアルバム「回帰線」の最後をしめる曲となり、今も大切に歌っている。
宮古島への移住計画は結局実現せず、あの酷暑の中で赤土を耕す農民になるという運命は回避できた。島の農民でさえも、誰ひとり飛びつかなかったあの農地開発自体に無理があったのだろう。
翌年の一九七七年、いよいよ藤本は株式会社「大地を守る会」を立ち上げ、新しい産直運動を築いていくことになる。