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2005年 冬 向き合うものに答えたい

38sho
 一九七七年は、コンサートの多い年だった。
シンガーソングライターとしてのアクティブさが欲しくて、ライブハウス「ロフト」で若い層にむけての少人数ライブもやってみた。林光さんや高橋悠治さんから声がかかり、チリの軍事政権に抗議するコンサートもあった。その時、ヴィクトル・ハラの名曲「アマンダの想い出」の訳詞をつくって歌い、アルバム「さびた車輪」の中にレコーディングしている。
ヴィクトル・ハラは、一九七〇年に誕生したアジェンデ社会主義政権時代、民族音楽を発掘して民衆のうたづくり運動をしていたヒーロー。七三年クーデターを起こしたピノチェトによって何千人の人と共にスタジアムに拘束され、ギターを取り上げられても最後まで歌いつづけ、両手をつぶされて銃殺されている。チリの音楽家たちは一九七七年ごろは他国に亡命して活動をつづけており、このコンサートは彼らを支援するためのものだった。
こんな風に世界の動きに呼応した音楽家通しのネットワークも健在で、他にも国連パレスチナデーのコンサートなどもあった。写真家の広河隆一さんが企画、そこに中山千夏さんが加わったり、ヒカシューなんていう若いアヴァンギャルドなバンドが共演したりという、何かと訳ありのイベント参加があって、歌の幅がどんどん広がって行った面白い年だ。
その後のレパートリーとして定着したものもあれば、定着しないまま、その時限りで記憶の中にかろうじて残っているものもあるが、「さびた車輪」というアルバムの中に盛り込まれた曲のひとつひとつにこの頃の私が浮かび上がってくる。例えば今も宝物のように歌っている「鳳仙花」は、このアルバムの傑作のひとつ。
ジャケットの表紙は、私が北海道中標津のムツゴローさんのところで馬に乗る練習をさせてもらった時、たまたま同行していた写真家が撮ってくれたもの。そして裏面は「新宿ロフト」でのライブ写真だ。
この中の「時代おくれの酒場」は「ロフト」のライブの前日のリハの時に突発的に生まれた曲だし、「裸足になって」もライブの幕開き用につくったものだった。
「さびた車輪」というオリジナル曲には世界を体いっぱい受け止めようという私の中の想いがはじけている。
この年の夏の野音には、日本でまだデビューしたばかりの「鬼太鼓座」をゲストに招いた。村と村の争いを太鼓で勝負するという歴史を背景に、惚れてはならない太鼓打ちに惚れてしまう女の歌を「太鼓打ちの唄」として作曲し、二つの大太鼓の大競演が実現した。
野音前の六月に、アメリカロサンゼルスに飛んで行き、「鬼太鼓座」の田耕氏と会い、野音出演を口説いた時の、たった一週間のアメリカ旅行も思い出深い。
ワシントン広場でギターを持って座り込み、路上ライブをした時、酔っぱらった黒人がぴったり私の身体に寄り添って、私の歌う「さびた車輪」に、ゴスペル風のコーラスをつけてくれたすごい体験。ふるえるほど素晴らしく、私自身の歌さえもがすごいスケールにふくらんだ記憶がある。
アメリカ滞在最後の日にはニュージャージーの体育館で、地元の日本人女性の主催でコンサートを開き、アメリカ育ちのジュニアたちのロックバンドとの共演をした。そのバンドには、インディアンの血を引く男の子から、韓国系の留学生までが加わっていて、イエローの魂いっぱいのロッカーたちだった。
いやあ、こうしてみると、ほんとに躍動的な一年だったんだなあと、びっくりする。
家の方では四歳の美亜子と一歳の八恵とを別々の保育園にあずけていた必死の頃だ。朝は八恵を乳母車に乗せ、美亜子の手を引いて保育園までテクテク歩いていた道のりの長さが今も身にしみている。多分、夫や母や姉や、いろんな人がカバーしてくれていたんだろうな、と今頃になってしみじみ気づく。
というわけで、アルバム「さびた車輪」は、曲の種類もいろいろで、ちょっと統一性を欠いたアルバムにみえるけれど、あのころの私の歌手活動をそのまま花束にしたようなリアリティーがある。
生きている時間の限り、出会う全ての世界にむかって答えたい私のやり方が、私の道を拓いてくれた。
これからもひたすら今の私を生きて、向き合うものに答えながら次の私を見つけて行く。それが私のやり方なのだと、このアルバムが教えてくれているような気がする。