museum ミュージアム

2007年 春 それぞれの航海

42
長女、美亜子が七歳、次女、八恵が四歳になり、むかえた一九八〇年の正月。
 私はやっと次の出産までの休暇に入った。
 年末の大晦日は京都南座で河島英五さんとの徹夜のジョイントコンサートがあり、正月の準備はすべて母にまかせていた。何だか申し訳なくて、この仕事を引き受けていいかどうかとちょっぴり悩んだりしたのだったが、その時母がこう言ったのだ。
 「あなたはその程度の気持ちで仕事してるわけなの?そんなんだったら全部やめちゃいなさい。子供がさびしいだろうとか、そんなことで迷う姿、子供に見せちゃ駄目。」
 そのひと言はほんとにすごかった!
 母が私の味方をしてくれている本音がずしりと伝わるひと言だった。
 三人目の赤ん坊を産むことについても、まわりにはいろんな想いと事情があったのだ。一九七五年に開いた私自身の事務所、揆楽舎も、それなりに活動の幅を広げ、スタッフも増えていたし、レギュラーで出演してくれているミュージシャンにとってもしばらく仕事がなくなるわけだから、それは大変。
 結局、事務所のスタッフも最小限に減らし、ミュージシャンの一人はこの機会にと、故郷へ帰ることになってしまったし、ほかの一人は別のアーティストのレギュラーになることになった。
 一月十五日、渋谷公会堂での渋谷区の成人式の式典のアトラクションが最後のステージとなり、その仕事のあとメンバー全員を我が家に呼んでお別れパーティをした。私が腕によりをかけて料理をして、それぞれの旅立ちに贈ったのだった。
 三人も子供が出来たら、仕事復帰がさぞかし大変だろうと心配してくれる人もあったけれど、私自身はまだまだ小さい上の娘二人にとっても、このあたりで家にいる時間が増えるのがちょうどいいなあ、と感じてもいた。
 それからの三ヶ月、毎週土曜日に私の手料理をスタッフに食べてもらって、みんなで英会話のレッスンをするというそんなプログラムも増え、「止まらない汽車」というエッセイ集の執筆、編集の仕事もして、なかなか実り多い日々となった。
 四月末の予定日まで、まだちょっと余裕の時間があるなあというそんな甘い期待を打ち破るように四月十二日の朝、陣痛は始まった。
 夜八時四四分、無事生まれたのは女の子。「美穂」と名付けた。
 小学校に入って間もない美亜子と、保育園の八恵のにぎやかな声に囲まれて、あたふたと楽しい子育てが始まった。
 はじめての赤ん坊に夢中だった長女の時、二人になった必死さで戦いのようだった次女の時、三人目は何だかみんなで子育てしてるような気楽な空気があった。
 その年の夏、日比谷野音のコンサートで、歌手活動に復帰。
 秋からのカネボウ化粧品のコマーシャルソングを歌うことになり、曲づくりに入った。あれやこれやと詞をひねり、やっとのことで準備を整え、担当の女性が事務所にやって来た日のこと。
 どうしてもOKが出ず、「もう少しやってみましょう」ということになり、エレベーターまで送って行きながら、「さっきゴミ箱に捨てちゃったのがもう一曲あるんですけどね」と私が言い、ちょっと口ずさんだら、
 「それがいい!」
ということになり、あわててゴミ箱から拾い出して仕上げることになった。
 それが『灰色の季節』。
 ゆっくりのんびり始めればいいと思っていた歌手活動も、思いがけない活気を帯びることになり、その年の秋から冬にかけて、書き下ろしのオリジナルばかりのアルバム「Out of Border」をレコーディング。
三人の子供に囲まれている空気とは別に、「自由な女のひとり暮らし」といった気分のうたづくりにのめり込んだ。
 自分の心の奥に歌を探しにいく。それはなかなか危険なことで、ほんの少しの危うい予感をひろげてしまったり、光の向こうの闇を見つけたりしてしまう。
 そしてその年の暮れ、東京を離れて田舎暮らしをはじめようという夫との大論争の果てに、離婚という答えに行き着くことになる。
 レコーディングの時も、「ほろ酔いコンサート」の時も、歌う度に胸が張り裂けそうだった歌『帆を上げて』。
 私はひたすら胸のうちに別れの準備をしていたのだった。