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2007年 冬 大切な出逢い

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中国の旅が終わろうとしていたころ、私がオノ・ヨーコさんに出していた手紙が偶然ヨーコさんの目にとまり読んで下さったそうで、 「逢いたいからニューヨークへいらっしゃい」 という返事が来た。
 北京から成田へ着いたその足でニューヨークに飛んだ私は、ヨーコさんの迎えのリムジンでロングアイランドの家を訪ねた。
 車から降りると、木造と思われる白い家の窓からジョン・レノンの歌が聞こえて来た。
 「ヒヤ・カム・ザ・サン」
 「今日、はじめてジョンの歌を聴く決心をしたのよ」と建物の外で迎えてくださったヨーコさんと、海風が吹く芝生の庭でそれから一時間以上も語り合った。
 私の手紙の要旨はこうだった。
  アメリカと日本が軍事同盟を結んでいる今、世界を平和に向かわせるためにヨーコさんに平和を発信してほしい。ジョンの死の後のヨーコさんの発言を世界中が待っている。
 沈黙しているヨーコさんに「是非、動いてほしい」とお願いしたのだった。
 「世界中から山のように送られる手紙の中に、あなたからの手紙を見つけたのは奇跡だった。宛名が毛筆だったので目にとまったの。」
 そう、ヨーコさんは言い、刑務所にいる人と結婚した人だというので、私を知っていたと話した。
 「私はね、空の向こうへ飛びたいからって、壁をこわすことはしないのよ。窓を開けることを考えるわ」
 私のお願いを「壁をこわすこと」とヨーコさんは受け取ったのだろうか。
 こんな会話をした後、ヨーコさんは「ジョンの追悼をこめて創ったアルバムがあるから聴いて」といって私をベッドルームへ連れて行った。
  そこで思い思いの場所にすわって、私とヨーコさんは「グッバイ・サドネス」を聴いた。とっても素直であったかな、その歌に感動し私は黙ってヨーコさんを抱きしめた。
 「この歌に日本語をつけて、うたってもいいですか」と訊ねた。
  「いいわよ」と、ヨーコさんは答えて 「もし時間があったら、ダコタハウスの私たちの部屋を訪ねていって」と言い、隣の部屋にいたショーン君に、 「日本からのお客さまよ」と声をかけた。
 ジョンが「ダブル・ファンタジー」のレコーディングから帰宅したところを撃たれたのは、ダコタハウスの門の前。
 そのダコタハウスは、その時、警備員が一人立っているだけで、静まり返っていた。ヨーコさんから連絡を受けていた人が案内してくれて、私はヨーコさんの部屋へ入った。
 ショーン君をひざの間に抱いたジョンの大きな絵が飾ってある部屋で私はしばらくその絵と向き合った。
  ビートルズが解散し、ジョンがひとりになった頃、ビートルズの多くのファンと同じように私は、ちょっぴり「オノ・ヨーコ」という人に違和感を覚え、ビートルズを解散させた張本人のように思っていた。
 けれど今は、ジョンがビートルズとしてではなくジョン・レノンとして残した歌の大切さが、とてつもなく大きなものだったことに気づく。
  「イマジン」「パワー・トゥ・ザ・ピープル」「ワーキング・クラス・ヒーロー」・・・ ヨーコさんがいたからジョンはひとりになれた、そう思うと彼女の存在は本当に大きい。
  帰国した直後の日比谷野音のコンサート、ステージには、ヨーコさんからの大きな大きな「花の地球」が贈られ、私は「グッバイ・サドネス」を歌った。
 それは一九八一年の夏。
 二〇〇五年の秋に私は、武道館のジョン・レノンスーパーライブに出演し、ヨーコさんとも再会した。
  私は夫を亡くした後の想いを語り、改めて、ヨーコさんの果たすであろうこれからの役割について話した。
 一体、私たちが何をどう語り、歌に行動していけばよいのかわからないけれど、今、ここにこうして居合わせることの大事さを私は感じていた。