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2008年 冬 四十才のファンファーレ

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四十才のファンファーレとともに始まった一九八四年!
すでに三人の娘は十二才、九才、四才の伸び盛り、家の中の実体は、私ひとりの世界を凌駕する勢いだ。
そして歌手としての私は、人知れず悩んでいた。 もう若くはないが、熟してもいない。守りに入ったら後退あるのみ。 そんな不安もあった。だからこそなのか、この一年はいろんなことにやたら挑戦した一年だった。
映画「居酒屋兆治」で日本アカデミー賞助演女優賞を受賞したことで、四月から、NHKの朝の連続テレビ小説「ロマンス」の中で、アルバム「夢の人魚」の中の歌を一曲ずつ歌うという謎の女の役で出演した。
素顔に近い顔で高倉健さんの妻を演じたのとは違い、黒づくめの服にサングラスというぐっと艶やかな役どころ。  ここらあたりで一気に、家庭のにおいを消して、『歌姫加藤登紀子』をイメージアップしようと言うことになったのだろう。
同じ四月に阿久悠さんの作詞、私の作曲で「風来坊」がシングルになり、その裏面の「浪漫浪乱」さらにアルバム「デラシネ」の中の「性悪女」と三曲レコーディング。
さらに、シアターアプルで芝居じかけの音楽会『ツェッペリンの見た夜』というミュージカル仕立ての出し物を演出家の佐藤信と組んで開幕。
その上、初めての自伝「ほろよい行進曲恋愛編」を出版した。
こんなにもたくさんの仕事をやりこなしているということは、波に乗っていたとも言えるのだろうけれど、実のところは、いまひとつ「うまくいってない感」にとらわれていた。
阿久悠さんとの仕事は、いかにも売れるための企画だから全メディアをこのシングルへ絞らなければいけないはずなのに、「芝居じかけの音楽会」ではこの曲を歌っていない。
坂本龍一プロデュースで出したアルバム『愛はすべてを赦す』と『夢の人魚』の世界をフューチャーして、一九三〇年代のドイツ、日本、アルゼンチン、ポーランドを舞台にした音楽劇だったのだから、無理もない。
時代の先頭を行くアーティストと出逢い、自分の音楽をもっともっと切り開いて行きたい想いと、「ヒットシングル出さなきゃ」という焦りが微妙に不協和音を奏でていた。
秋には「ないものねだり」というオリジナル曲が、サントリーリザーブのCMソングになり、これでヒットが出せるかと願ったが、何かの都合でコマーシャルスポットがあっという間に終わりこれも不発。
とは言っても、この『ないものねだり』を含む新曲10曲をこの秋レコーディング、12月には『最後のダンスパーティー』というアルバムになって発売されている。
この中に、あの『難破船』が入っていたのも、何かその後の展開への伏線と言える。
『最後のダンスパーティー』はヴァイオリンの武川雅寛の所属するグループ、「ムーンライダース」のメンバーで、当時トンガった打ち込み系のサウンド作りで活躍していた白井良明のプロデュース、アレンジでレコーディングした。
彼の過激さに期待して私自身、これまでにないアプローチでの曲作りになり、今思い出しても、何だかひとつひとつが実験的で無茶苦茶楽しいレコーディングだった。
充分仕事しすぎの感のある一年だったけれど、もひとつおまけに年末の「ほろ酔いコンサート」がライブ盤になって翌年三月に発売になっている。
一九八四年四月から八五年四月までの一年に三枚のアルバムとシングル二枚?!
よく頑張ったんだなあ、と我ながらあきれる。
こんな鳴り物入りの仕掛けづくしのこの年に、ひっそりと『冬の蛍』が生まれていたことも、大切な実りだ。
大陸からの引き揚げ者の女性が孤児だった女の児を育て、死ぬ間際にそのことのすべてを告白する、という筋立てのテレビドラマのラストテーマ曲として作詞作曲したのだった。「冬の蛍」とは、野宿をした川の土手で燃やしたたき火の火花のこと。私自身の幼い記憶ともどこか重なってくる、深い縁だ。
何を頑張っても辿り着けないもどかしさの中で、こういう歌こそが私自身なのだと納得するにはまだ若すぎた。
私の四十代は、始まったばかり。あらがいの旅はまだまだ続く。