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2009年 春 熱気いっぱいの二十周年

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歌手生活二十周年を迎えた一九八五年。
「二十周年なんだから、二十時間コンサートやりませんか」 と言い出す人がいて、私は、すっかり乗せられた。
これまでうたってきた歌を、総ざらえして歌ってみることが出来る!!
いつもいつも二時間のプログラムに圧縮する為に、切り捨ててきた歌たちを改めて舞台に乗せることで新しい発見があるかもしれない。
シャンソンからロシア民謡、フォルクローレ、そしてそのほかにも出逢う限りの、いろんな国の歌をうたってきた道筋を、くっきりと示すことが出来る。
そして同時に創り続けてきたオリジナル曲と、その出逢いの歌たちとを同じ時間の流れの中で表現し、味わうことが出来る。
私の頭の中では、早速プログラム作りがはじまった。
ところが、事務所のスタッフに、その計画を発表すると、全員、猛反対!
「登紀子さんはいいかもしれないけれど、聞くほうがとてももたないでしょう。それに裏方のスタッフは死にますよ!」
誰も賛成してくれないのには参ったけれど、私の心には火がついてしまった。
もう一度計画を練り直し、「十二時間コンサートはどう?」 と説得した。  夕方六時から、明け方の六時まで。ちょっと長めのオールナイト。土曜日なら地方から来た人も、ホテル取らなくても見に来れる!
計画が具体的になって来ると、「やってみれないことはないか」という気分にみんなもなって来て、ついに、東京と大阪で開くことになる、どちらも「ほろ酔いコンサート」を開いている会場で、七月にということで決まった。
歌う曲は約百二十曲、休憩を入れながら六回分のコンサートを一晩でやる、ということだから、バックバンドも二グループに分けた。
十二時間、歌い続けるということを体に馴らすために、リハーサルも十二時間以上、朝十時から夜十時過ぎまでとハードなものを数回やった。
今も、東京と大阪の本番をありありと思い出す。
不思議なことに三部の頃から、体が煙突のようになって来て、声が勝手に出てるといった風で、これまで味わったことのない気持ちよさだった。
苦しかったのは、みんなが眠くなる明け方四時ごろ、少しでも気を抜くとだれてくるので私は必死だった。けれど、終わりの頃はやっぱり最高だったなあ。 忘れもしない次の朝、すっきりと晴れたすがすがしさの中で、「お疲れさま!」って帰る時の達成感!!  でもその時ハタと気づいた。スタッフたちはそれから、バラシ(撤収の仕事)があるんだ!
本番の日も、朝から仕込みをし、サウンドチェック、リハーサル、と休みなく働いた彼ら。泣き言も言わず、やり遂げてくれた彼らに改めて脱帽だが、一週間後には大阪だ。
この時は、主催者がはじめから前半と後半に分けてチケットを発売したことで混乱した。前半だけで帰るはずの観客が帰ってくれず、チケットを持っていない後半の客とダブってしまったのだ。
帰りたくない客を追い出すのは野暮というので、「そのままいていい」ということになり後半はぎゅうぎゅう詰めの客席で、いやがおうでも盛り上がった。
予定曲を歌い終わった朝六時、「力尽きるまで歌うはずなのにまだ力尽きてないよ」と私。次から次とアンコール曲を歌い、十曲近い「のり」の曲を歌った。
今も語り草になっている「十二時間コンサート」だけれど、これはまだ二十周年の前哨戦。
本命の二十周年記念コンサートは、八月二十日、日比谷野音での「二十年祭」だった。
この日がまたまた忘れられないのは、大雨だったことだ。
一九七二年の日比谷野音をきっかけに二〇〇〇年まで毎年続いた野音コンサートだったけれど、この日ほどすごい雨はほかになかった。
幸い、一部に着ていた赤の衣装が水をはじく素材だったので、私は意外に平気だったけど、客席でずぶぬれになっていた人は、さぞかし大変だったことだろう。
それでも後半は雨も上がり大詰めのフィナーレ。
ステージ前に何本もの花火が火を噴いた。
歌ったのは「ランニングオン」。  「本気で望むならば、きっとかなえられる」
大雨の中、最後まで聴いてくれた聴衆に、心からのメッセージをこめて。
この二十周年の一部始終をまさに言い当てている。