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ドキュメントTokiko

2020
02.
14
ほろ酔いコンサート IN ヒューリックホール<Vol.1>
◆ロビーでも客席でも、樽酒大関!

2019年、師走。「ほろ酔いコンサート」が有楽町マリオンに帰ってきた!登紀子さんが1971年、最初に「ほろ酔い~」を開催した日劇ミュージックホールのあった場所。ヒューリックホールのロビーは満杯、振る舞い酒の大関を受け取る人々のうれしそうな顔、顔。なんと今年は会場内で飲んでもよい、とのこと!日劇ミュージックホール時代は客席が酔いの回った人々で一杯になったという話を聞いた・・・大変なことにならないとよいが(笑)!

◆第一部。いよいよ開演!

弾むように入場するバンドメンバーのあとに、トキコさんが微笑みながら颯爽と登場すると、会場全体から、熱気を帯びた拍手の渦。

♪Never give up tomorrow
♪Begin again

のっけから明るい2曲でスタート。会場からの割れんばかりの拍手の中、トキコさんが最初の一言を放つ。

「いいなあこの景色!すごい見える!みんな見えるよ!イエイ!」

客席からはワーっと歓声があがる。

「昨日誕生日でした!去年は3回目の25歳だったけど、いまはゼロに向かって驀進中。あとゼロまで24年もある。100まで生きるとすれば、ね!!母がある時、「100年も生きる人って凄いね、びっくりしちゃうわね」って言ってましたが、101で亡くなりました!そのうち、私も言うんでしょうねきっと… 笑」

本当にそのうち、トキコさんも100を超えて歌い続けてくれる気がする。待てよ、そうすると年齢カウントはまた、1から増えていくほうに戻るのだろうか?
そのまま、自然にギター告井さんのあたたかい弦の音が聞こえてくる。

♪Imagine
♪生きてりゃいいさ

「思い出す人思い出す人、みんなあの世だね。ほんと、河島英五さんも40代で亡くなり、びっくりしました。英五さんとは78年のほろ酔いコンサートで初めて会って、翌年この歌を私に送ってくれて、感動しましたね。79年ということは、私も若かった!45才ね。それでも、“今日まで私を支えた情熱にありがとう”っていう言葉は、響きました。あれからどれだけ月日が経っても、“今日まで私を支えた情熱”っていう実感は、あの頃の方が重いかもしれないなあ、と思います」

若きトキコさんの一時代、自らの心の火で何度も自分を支え続けた、そんな日々に、染み込むような英五さんの歌詞とメロディ。そうした若い日々を積み重ねてきて、いま太陽のように輝くトキコさんだから、その言葉が我々の心に温かく染みるのかもしれない。この『生きてりゃいいさ』を歌うトキコさんを撮る時いつも、温かい涙が滲んでしまうのはなぜだろう。

「今日は、歌手55年のいろんな思いを込めて、いろんな出会いにありがとう。英五さんの歌詞にもあるように、まだ見ぬ人にありがとう、そしてもう会えない人もありがとう、いろんな意味でありがとうを込めて、思い出深い曲を歌っていきたいと思います。まず、恩人といってもいい、BIGな3人の歌を」

まずは亡くなって10年の森繁久彌さん。そして森繁さんと同じ日に亡くなって5年の高倉健さん。そして最後は石原裕次郎さん。裕次郎さんとは結局、直接会ったことがなかったにも関わらず、作詞家のなかにし礼さんが「これが裕ちゃんの最後の歌になるかもしれないから、おとき、曲を書いてくれ」と言って下さったという。

「礼さんの歌詞を見ていると裕次郎さんの声が聞こえてくるほどピッタリの歌詞で、素晴らしい・・・って自分で言っちゃいけないけど(笑!)素晴らしい曲ができました!!」
客席は楽しそうな笑いでふわっとあったかくなる。

「ま、そう思わないと歌えないでしょう、歌手って(笑)では3曲、行きますよ。これ全部、一緒に歌っていいよ!」

歌手もフォトグラファーも同じかもしれない。フォトグラファーも自分で心の中で(いい写真だ!)と思わないと、ずっと永く撮っていけないかもしれない。どんな仕事であれ、どんな人生であれ、みんな自分を信じないと、前へは進めないのでしょう。

「最初の『知床旅情』は、森繁久彌さんのキーで歌おうと思ってます。この歌は千歳船橋の駅に行くと流れるんですよ!今日は息子の建(たつる)さんも来てくれているから、一緒に歌ってね」

♪知床旅情

みんなを一歩リードして、会場の皆さんに歌詞を教えながら歌うトキコさん。

「しれ~とこ~のみさきに~ 
はまなすの~・・・ちょっと!声が小さいね!」

時折叱りながら、ハッパをかけながら、暖かな笑顔と深い歌声でリードするトキコさん。
そうして客席全体から、緩やかな温かい歌声が流れていく。
トキコさんのファンの方々は、みんななかなか、いい声をしているなぁ・・・。

♪時代おくれの酒場
♪わが人生に悔いなし

客席に降りて歩くトキコさんを、客席のみなさんが笑顔で迎える。

「私の何よりも自慢なんだけど、こうして見渡すと、私のお客さんたちは皆、すごい良い顔なのね!特に男性がね。この人は一体どんな人生を歩いてきたんだろうって思います!時間があれば、一人ずつインタビューしたくなっちゃうわね!」

そして、次に歌うのはトキコさんが出会ってきた女性たち。

「私が出会ってきた女子、みんな魔女です!(笑)まず一人目は、中島みゆき。そして二人目は中森明菜。そして最後は、和田アキ子」

客席は楽しそうに、(おー!)と、どよめいている。

中島みゆきさんは1978年に「この空を飛べたら」をトキコさんに書いて送っている。それから約10年後の87年に、今度はトキコさんが中森明菜さんに「難破船」を歌ってもらったという。そして同年、和田アキ子さんに書いた曲が、「今あなたに歌いたい」。

「これがまた・・・いい曲で!(会場笑い)ほとんどこれまで歌ってないんですけど、今日はどうしても歌いたいんです」

和田アキ子さんがNHK紅白歌合戦のトリでこの歌を歌い、途中からマイクを離して(生声で)絶唱した楽曲。当時まだ子供だった私の脳裏に鮮やかに焼き付いている1シーンで、歌で想いを伝えようとする、そのときの和田さんの真剣な顔も覚えている。

♪この空を飛べたら
♪難破船
♪いまあなたに歌いたい

「この3曲は全部、私の気持ちですね。(会場拍手)最初、歌い始めたときは歌うことに必死で、どういう人がどういう風に歌を受け止めてくれるのかわからなかった。
(ああ、そうだったのか)とわかったのは72年に結婚前の最後のコンサートを日比谷の野音でやったときでした。当時は会場の入場人数の規制が緩くて、結局8000人くらいの人たちが野音を埋め尽くしたんですね。あの時に初めて、歌が届いてたんだなーって思いましたが、歌手を辞める決意をしていた時だったので泣きたいような気持ちでした」

それでもトキコさんは、結婚してから再び歌い始める。そのころから告井さんと一緒にやり始めたということで、告井さんとの音楽活動は本当に長く、今も続いていることになる。

「一年の終わりは毎年、いろんな意味で、さよならの気持ちを持つことになるんですけど、今年はいろんなことがありましたね。火事も、ノートルダム寺院、そして沖縄でも首里城が焼け、オーストラリアで山火事が続いています。ペシャワール会の中村哲さんも12月4日に亡くなりました。その思いも込めて、沖縄の『童神』という歌を聴いてください」

♪童神

三線の音。きらきらと流れるパーカッションの音。
沖縄民謡特有の優しいぬくもりと「生きている」エネルギーを感じながら、静かにシャッターを切る。空気を震わす音、歌声、空間に満ちていく人々の思いや色合いは、自分がゼロにならないと捉えられない。考えず、ただただ感じていると、「童神」の世界が、体中に染みわたっていく。

中村哲さんは2001年の9月11日のNYのテロを受けてアフガンに空爆が始まった頃、「この無差別爆撃をやめてほしい。そこには今日を必死で生きている人がいて、砂漠がどんどん広がる中、今日を生きるのがやっとなのだから。それを助けなくてはならない」と訴えていたという。そのメッセージを聞いたトキコさんは、その年のほろ酔いコンサートでペシャワール会への募金を開始、たくさん募金を集めて、お正月に帰ってきた哲さんにそれを直接渡したという。

「2002年のお正月が、私と哲さんとの出会いでした。それから18年、できるだけ応援したいと思っていました。なんとしても、哲さんの思いが途中で台無しになることにないように、これからも応援していこうと思っています。国も何も関係なく、力を直接つなぎあっていく時代になったかなという思いでいっぱいです。一部の最後はこの歌で締めたいと思います」

♪Revolution

~生きてることは愛することだと ほんとはわかっているのに
自由なはずの だれもかれもが がんじがらめの とらわれ人なのか~
(Revolution 作詞作曲:加藤登紀子)



(写真と文:ヒダキトモコ)

加藤登紀子ほろ酔いコンサート IN ヒューリックホール<Vol.2>

加藤登紀子ほろ酔いコンサート IN ヒューリックホール<Vol.3>


ヒダキトモコ

写真家。日本写真家協会(JPS)、日本舞台写真家協会(JSPS) 会員

東京都出身、米国ボストンで幼少期を過ごす。専門はポートレートとステージフォト。音楽を中心とした各種雑誌、各種ステージ、CDジャケット、アーティスト写真等に加え、企業の撮影も多数担当。趣味は語学とトレッキング。

​Instagram : tomokohidaki / Twitter ID : hidachan_foto