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ドキュメントTokiko

2020
07.
16
コロナに負けない!オーチャードホール・コンサート2020年6月28日〜②〜
【そして開演!第一部は真っ赤な衣装で】

5分前のベル(1ベルと呼ぶ)が鳴り、客席が埋まる。客席の電気が落ちてバンドメンバーが入場すると、いよいよトキコさんの55周年のオーチャードホール・コンサートが始まる。
登場はいつもの下手(しもて)からではなく、ステージのセンターから背筋を伸ばしたトキコさんが真剣な表情で滑るように歩いてくる。客席前で立ち止まると、ぱっと優しい笑顔がこぼれた。
客席からは拍手の渦。
♪Rising
♪Revolution


つづく『知床旅情』のイントロが始まると、その温かなメロディが会場全体に染みわたる。トキコさんがマイクを握って客席に声をかけた。

「今日は本当にありがとう!最後まで、精一杯、楽しんでください!」

♪知床旅情

ワンコーラス歌うごとに会場全体から、しみじみと沸き起こる拍手の波も、涙ぐみながら聴いている人々の熱量を感じさせる。撮影は始まったばかりなのに、私まで目の中が涙でいっぱいになってくる。みんな、どれほど待ち望んだだろう。コロナ渦が始まって以来、暗いニュースと日々の感染の恐怖に、氷のように固くなった心と身体。それがこの歌声にゆっくりと温められ、気持ちが溶けだしていく。そんな感じを受けたのは私だけではないだろう。

「ここにいらっしゃるまでに、相当覚悟も必要だったことでしょう。心から感謝の気持ちで一杯です。最後までガッツリ、歌っていきます!」

今日のコンサートの開催は、1か月前に決断したという。当初は客席に人を入れてのコンサートは難しいと考えて、無観客でもオーチャードでやる準備を進めていたというトキコさん。
「そしたら、ちょうど客席の50%、1000名までならやってもよいという基準が出たんです(参考:オーチャード・ホールのキャパは約2000人)。神の声かと思った!天から、「おときさん、あなたでしょ」と言われているような気がして、決断したんです(会場拍手)」

コロナ渦でのコンサート開催は音楽業界全体で、まだ手探りの状態が続いている。誰かが先陣を切るなら自分が、と決断したトキコさんに、「やるなら行きます!」という声が多方から届き、トキコさんにとって励みになったという。
「今日は一緒に歌ってねって言っちゃいけないって言われてますが・・・歌なんて、声を出さなくても歌えるからね!・・・歌は心で歌うものですからね!!」

55周年の今年。この55年間で沢山の歌を作ってきたトキコさん。
「本当にたくさんの出会いに守られて、導かれてきたと思います」

『知床旅情』も、初めて聴いたのは若者だった1968年の春。一人の男が気持ちを一つの歌に託して歌ってくれたことに衝撃を受けた(その彼は後に夫となる藤本敏夫さん)。
歌は、歌手がステージで歌うもの、ではなく、もっと心に近いもの。ひとの心と身体の中に生きているものだ、と教えられた気がするという。

「プロの歌手であるということはそれ以上に、心の中に、自分の命とともに歌をもっていなくてはいけない。それに気づいた1968年は大事な年でしたが、それから1年かかって69年の3月にやっとたどり着いたのがこの歌でした。『ひとり寝の子守唄』」
♪ひとり寝の子守唄
♪愛のくらし
♪この空を飛べたら

ギター、ピアノ、ヴァイオリンでの静かな『愛のくらし』は、新鮮だった。

「歌は不思議。実際に生きてきた一人の人間として、折節の情景が、一つ一つの歌詞に克明に浮かんでくる。『この空を飛べたら』は、中島みゆきさんが贈ってくれた歌。いくつもの人生の節目に、(暗い土の上にたたきつけられても、空を見ている)。そうなんだなあって。そういう風に、当時の私をみゆきさんが見てくれたのかなと思っています」
♪時には昔の話を
♪生きてりゃいいさ


『生きてりゃいいさ』をトキコさんに贈った、河島英五さん。
1979年にトキコさんと一緒にツアーを回った英五さんは、(自分は丈夫そうに見えるけど、身体の弱い子供だった)と言っていたそうです。

「生きるっていうことが、すごく大変だった部分があったのかなと思いながら、この歌詞が色んな意味で深いなと思って歌ってきました。そして、今年は生きるということが、とても大きなテーマになっています」

コロナ渦でステイホームするも、TVの向こうに見える医療従事者の皆さんや感染者、そしてその家族の皆さんの痛みを思い、無力感にとらわれそうになった時、医者の鎌田先生が「おときさん、あなたには歌があるじゃない」と言ってくれたという。

TV画面を見ながら、みんなに届くようにと願って作った新曲「この手に抱きしめたい」はほかのミュージシャン達にも届き、鶴瓶さんを始め多くの著名人やアーティストがYoutubeでの歌に参加してくれた(加藤登紀子with friends として。Youtubeでご覧になれます)。
離れていても繋がっているということを、感じさせてくれる作品となっている。
https://www.youtube.com/watch?v=iWRy8oSgJWQ

♪この手に抱きしめたい

今年の55周年のコンサートに、「未来への詩(うた)コンサート」という名前を付けたトキコさん。自作の歌も沢山作ってきたが、元々シャンソンでデビューして、それも含めて過去の色々な人が作った音楽を歌ってきたという。

「何十年先に私たちが歴史として語られるはずの今を生きているわけですけれども、ここからまた何か残せるかもしれない。残せなかったとしても、せめて私たちは遠い時代から受け止めたものを未来に届けたいという意味で「未来への詩」と名付けて、歌たちへの尊敬を込めました」

レコーディングでは、この歌のコーラスにYaeさん、そして劇団ひまわりの子供たちが参加している。今日は劇団ひまわりの子供たちは来れなかったので、Yaeさんと2人で歌う、新曲『未来への詩(うた)』。
♪未来への詩

楽しい時間はあっという間に過ぎていく。トキコさんの歌の歴史と、空気の震えから伝わる生の歌声と演奏に胸が高鳴ったまま、第一部の幕となった。


【第二部はYaeさんのソロからスタート】
舞台袖、二部開演直前に鏡を見ながらメンバーの皆さんと笑っているYaeさん。

オープニングは、朗々と天まで祈りが届きそうな美しい『アメイジング・グレイス』。
続いてブラジルのサンバのリズムで歌い踊る、アップビートの『褐色のサンバ』。
♪アメイジング・グレイス
♪褐色のサンバ


「ありがとうございます。改めまして、Yaeです。
今歌ったのは『褐色のサンバ』。ブラジルのクララ・ヌネス、そして加藤登紀子が歌った歌です。『アメイジング・グレイス』は奴隷船の船長だったジョン・ニュートン牧師が作詞をしたといわれています」

『褐色のサンバ』の原題は”Canto Das Três Raças”。
三つの民族の歌という意味で、それらはブラジルの先住民インディアン、そしてポルトガルから渡ってきた白人たち、そして西アフリカから送られてきた黒人たちを指すという。

「私Yaeが今年20周年ということで、秋には加藤登紀子プロデュースでアルバムをリリースします。その中の一曲、私のオリジナル曲、『Smile』聞いてください」

♪Smile

澄んだ、芯のある暖かい歌声が、まるで心地よいおひさまの光のように広がる。
「歌を、未来へつないでいきたい。世界中の素晴らしい歌を皆さんに聞いていただけたらと思っています。11月10日には渋谷伝承ホールで20周年コンサートやりますので、そちらもたっぷりお届けできればと思います」

今日、歌うことが本当に幸せと改めて実感したというYaeさん。最後の一曲はスコットランドの民謡の『蛍の光』をベースにした一曲。
「本当は、この歌は別れやサヨナラの歌ではなく、再会を喜び、一緒に飲み明かそうよ、そんな歌です。登紀子が訳詞をしてくれました。『懐かし友よ』聞いてください」
♪懐かし友よ

歌い終わると会場全体から温かな拍手が波のように押し寄せた。
入れ替わりにトキコさんが、白と黒の素敵なドレスに身を包んでステージに姿を現す。

続くトキコさんも外国、アフリカの歌を歌ってくれた。

「ミリアム・マケバは1968年ころ『パタパタ』という曲で大ヒットを出した南アフリカ出身の女性シンガーです。彼女がシフォ・マブセという若いシンガーと、まるで息子と母親という感じのデュエットを歌っていて、それが素晴らしかったので日本語に訳してレコーディングした歌です」

ミリアム・マケバはアパルトヘイト時代に世界的なシンガーとなり、故郷に戻れぬまましばらくニューヨークで暮らし、ネルソン・マンデラ氏が大統領になって初めて故郷に戻れた女性。最後まで、アフリカのママと呼ばれて愛されたシンガーだったようだ。
♪MAMA
♪愛の讃歌

ヒダキトモコ

写真家。日本写真家協会(JPS)、日本舞台写真家協会(JSPS) 会員

東京都出身、米国ボストンで幼少期を過ごす。専門はポートレートとステージフォト。音楽を中心とした各種雑誌、各種ステージ、CDジャケット、アーティスト写真等に加え、企業の撮影も多数担当。趣味は語学とトレッキング。

​Instagram : tomokohidaki / Twitter ID : hidachan_foto