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ドキュメントTokiko

2024
02.
05
2024.6.5. 東京国際フォーラム〜60周年への序章~①

2024.6.5. 東京国際フォーラム〜60周年への序章〜

初夏の東京国際フォーラム。有楽町の一角、フォーラム C の入口を入り、広い大階段を上って登紀子さんのリハーサルへ。バンドメンバーと共に細やかな調整を重ねる登紀子さんの姿を静かにカメラに収めるのが、私は本当に好きである。本番の華やかさのバックにある登紀子さんの静かな姿はとても素敵に思える。ギターを持って弾き語りのリハーサルをする背中を古いライカで一枚、撮った。

開演少し前に白くて明るい廊下で待つ。トキコさんとバンドメンバーが珍しく一緒に歩いてステージに向かう様子が、これから始まる音楽の、ワクワクする気持ちを高めてくれる。

◆さあ、本番第一部!

舞台袖から、重いドアを押し開けて客席へ。見渡せば、満杯のお客様。暗がりからバンドメンバーが入場し、あたたかな陽だまりのようなイントロが始まり、登紀子さんが現れると大きな拍手がおこった。

♪そこには風が吹いていた

〜獲物を追いかける 狼のように 走り続けてる時だけ生きてると感じてた〜
〜どうして泣けてくるんだろう まだ旅の途中なのに〜(作詞作曲:加藤登紀子)

一曲目から泣けてきそうな温かいメロディと歌詞に、気持ちを引き締めてレンズを構える。
客席は静まり返って聴き入っている。一生懸命に毎日生きている人には、きっとこの作品が心に沁みるのではないだろうか。

♪さくらんぼの実る頃

「駆けつけ三杯!」と言って水分補給。
歌い終わったトキコさんの第一声に、客席からは笑いがもれた。

「歌い始めた二十歳からあっという間に60年。今年の秋から60周年イヤーに入ります。
学生時代に参加した一回目のシャンソンコンクールの時、二十歳でした。そのときはエディット・ピアフになるつもりで受けたので、いま歌った「愛の讃歌」は、私の二十歳のシンボルでした」
そう微笑むトキコさんが昨年暮れ、ほろ酔いコンサートのときにメモリアルな意味で今まで作詞した作品から100篇を選び、「加藤登紀子詩集」を出した。
「私の出発点は、美しき20歳。誰にも支配されずに生きるために歌手になった加藤登紀子です!(客席からは歓声!)。でも実際は、誰にも支配されずに60年生きてきたわけではありません。ですが客席の皆さんの一人ひとりが(誰にも支配されないぞ)という気持ちで私の60年を支えてくれた気がします。60周年についてお礼をいうのは少し早いですが・・・ありがとうございます」
客席のお客さんからは大きな拍手と歓声が上がった。

「今年、宮崎駿さんの「きみたちはどう生きるか」がカンヌ映画祭でパルムドールを受賞されました。私も見て、どういう答えを見せてくれるのだろうと思ったのですが、宮崎さんからは、(ああ、まだわかんないね、まだ見つかってないんだよ)というメッセージを独白として伝えられたような気がしました。

宮崎さんの映画「紅の豚」のジーナとして出演させていただき、いま歌った「さくらんぼの実る頃」は150年前の歌です。あの映画の設定は100年前ですから、ジーナが(50年前のあの頃を思い出そうよ)という意味で歌っているのだと思う。この映画のラストに宮崎さんが選んでくれた、私の歌を歌います。「時には昔の話を」。




♪時には昔のはなしを
♪美しき20歳

「美しき20歳」。この歌を歌うと、みなさんが、うつむき加減になったり、にやっとしたりと、反応がそれぞれ違うのね。でも今日はね・・・(客席のひとりにむかって)あなた、泣いたでしょ?」と顔をのぞきこんだ。

「この歌で泣く人がいるとは思わなかった。まいったね。・・・泣かないで」
トキコさんの声は優しかった。

二十歳は、今のトキコさんからみれば人生はまだまだ始まっていないような時期。でも二十歳当時の本人は一人前だと思っていて、自分の人生は自分で描くと張り切っている。一方で、全部自分一人で育ってきたわけではないと気づいたり、悩んだりした、懐かしい大事な月日だったと語るトキコさん。演劇部にいたことから、女優の道も考えたこともあったけれど、いつの間にか一人で自由に創作することのできる歌手になったという。それでもなかなか思うようにできなかったというが、恋をして、歌手になって、必死で生きているうちに今日になったそうだ。

「二十歳で、私の初めての恋が終わったときに作った歌があります。だれか歌ってくれる人はいないかなと思って、中森明菜さんに送った歌、難破船、聞いてください」

♪難破船

トキコさんの歌う難破船には、覚悟と絶望が入り混じっている感じがすると同時に、海の底に沈みながらも、そのうちにきらきら光る水面を目指して海底をぽん、とキックするのではと思う生命力を感じるのは私だけだろうか。明菜さんが歌うほろほろと崩れていくような、深い海の底にいるような『難破船』も美しくて壮大で、心から悲しくなる。一方、トキコさんの『難破船』に私が感じる、どこか見えない部分に小さな灯りを内包した闇のような感じにも救われる気もする。歌う人や受け止める人によって微妙に変化する作品の色合いもまた、音楽の魅力なのだろう。

「恋は終わりがあるから、次の恋が始まるのね。次の恋は24歳でした」
お相手はのちの人生の伴侶となる藤本敏夫さん。刑務所に入っていた時期もあり、なかなか会えない寂しさに、たくさんの歌が生まれたとトキコさんは言う。
「1969 年の 3 月、東京でむやみに雪が降った朝に作った歌です。『ひとり寝の子守歌』」

〜ひとりで、、、と冒頭の歌いだしを歌い始めてすぐに、急に声がかすれて歌えなくなってしまったトキコさん。泣いていた。

「(先ほど、美しき二十歳、で泣いたお客さんに向かって)ちょっと!あなたが泣くからよ!」
というと、会場は笑いに包まれた。改めてギターをつま弾いて歌う、ひとり寝の子守唄は、天井を見上げながら涙をこらえるような、寂しさがひしひしと伝わる歌声だった。

♪ひとり寝の子守唄

作った約3か月後の 6 月 16 日に、この歌をレコーディング。あまりにも寂しい歌なので、当初はレコーディングしてもらえないかと思ったというトキコさん。出所してすぐの彼に歌って聞かせると、この歌のあまりの寂しさにいたたまれない様子だったという。

「登紀子さんの歌に力をもらっている、励まされています、って言ってくれる人が時々いてくれます。でも、私の歌は寂しい歌が多いから、励まされるって言われても、どうなのかしら、と言ったら、「いいんです。登紀子さんの歌を聴くと、どん底になれるから。明日は元気に起きるかっていう気になれる」と言ってくれました」会場は少し笑いに包まれたが、すぐに静かになった。

「でもどの時代でも、世の中を見渡した時、一番大変な人は誰かしらって思って歌ってきたし、いまこの会場の皆さんの中にも、そう思って歌っています」

そういう気持ちが、会場で歌を受け止める側に自然に伝わっていくのだろうか。そして、自然と力を与えていくのかもしれない。

その 3 年後、結婚し、その 1 年後に再び歌い始めたトキコさん。そのころに出会って一緒に音楽を作り始めたのが、今もトキコさんを支えるギターの告井延隆さん。最初に作ったのは『この世にうまれてきたら』というアルバムの中の『あなたの気配』。

♪あなたの気配

話を聞きながら歌を聴けば、寂しさの中にあたたかな懐かしいような太陽のにおいのような暖かさを感じるのはなぜだろう。続くもう一曲は、やはり告井さんと一緒に作った『回帰線』というアルバムの中にある、『あなたの行く朝』。

♪あなたの行く朝

トキコさんは満州のハルピンで1943年に生まれ、1歳8か月で戦争がおわり、2歳8か月ちょうど1年間向こうで難⺠として暮らした後、運よく日本に帰ってこられたという。
「1981 年に初めて日本の歌手として、中国東北部に迎えてもらった。本当に素晴らしい旅でした。うちにあがってお茶でもどうですかって言ってくれる人がたくさんいて、私は戦後のことを気になり、皆さんはどうして暖かく迎えてくれるのか聞いたことがあります。
すると、「戦争憎んで人憎まず」。未来に向かっていくんですよ。これからは前に向かっていきましょうと言ってくれた人がいました。本当にびっくりし、ありがたいと思いました」
2022年には、ウクライナとロシアの戦争が始まった。トキコさんは、そのことに心を痛め、戦争が一刻も早く終わるようにチャリティの CD を作ったが、続いてはその中からの 1曲。

♪果てなき大地の上に

この後小さな歌い手、劇団ひまわりの子供たちが入ってきて、ここから 2 曲、トキコさんと一緒に歌った。
「オッペンハイマーという映画を見ました。3時間の中、ほんの一瞬だけど心に刺さる瞬間がありました。マンハッタン計画は、元々ナチスドイツのために作った原爆のプランだったので、ナチス崩壊後に一度、もう終わらせようという議論になった。ところが、「でもまだ日本が戦争を続けているじゃないか」という一人の言葉から、とても悔しい展開になりました。どうしてもっと早く戦争が終わらせること、止めることができなかったのだろうか。その悔しさをいっぱい書いている人がいます。『はだしのゲン』作者、中沢啓治さん。はだしのゲン1巻に、原爆前の広島の姿が描かれています」

♪広島 愛の川(朗読)
中沢さんの書いた、歴史に関する言葉を読む登紀子さん。

♪未来への詩
登紀子さんの豊潤な歌声と、交代に響く子供たちの歌声。最後は全員で歌い上げる。この優しい旋律にのった、ささやかな幸せを歌ったこの歌詞も、すべてはあたたかな未来を祈っている心から発せられる光のように感じられた。

「ありがとうございます!」

あっという間に前半が終わり、トキコさんは笑顔でステージを去っていった。

(写真と文:ヒダキトモコ)

ヒダキトモコ

写真家。日本写真家協会(JPS)、日本舞台写真家協会(JSPS) 会員

東京都出身、米国ボストンで幼少期を過ごす。専門はポートレートとステージフォト。音楽を中心とした各種雑誌、各種ステージ、CDジャケット、アーティスト写真等に加え、企業の撮影も多数担当。趣味は語学とトレッキング。

​Instagram : tomokohidaki_2 / Twitter ID : hidachan_foto